『葬送のフリーレン』感想(下)
葬送のフリーレンという作品の魅力については、前半のnoteで述べた通りなのですが、28話を観て、思わず私も自らの個人的な体験を想起し、そこから自らの中に改めて落とし込む(再解釈)体験をしたので、個人的な話になりますが、最後にそのことについて少し文章にしてみます。
その前に言っておきたいことがあります。何よりも、仏教徒ちゃんこと堀部遊民和尚の次のnoteを読んだことが、これからの文章を書く上での最大の動機となりました。
このnoteでは私の言葉でいえば、過去の人生に起こったことが、遡行的に再解釈され、それが「今これから」の僧侶として生きるうえで、必然であったことが語られています。そして、それは自らの人生だけではなく、(遊民和尚にとって)お父様を理解されるうえでも、必要な経緯だったことが語られています。
前者については、私が前半のnoteで書いたフリーレンの魅力とピタリと一致するものです。そして、これは誰かから教えられるものではなく、”自らで”物語るものでなければなりません。そこに”こそ”、私たちの持つ可能性と自由があるはずです。
外から見みると、その師匠であるお父様を理解することができた経緯は、とても残酷であるとみてしまうかもしれません。しかし、このnoteからも伝わりますが、遊民和尚がそのことについて後悔している様子は、全く感じられません。それは次のポストにも如実に表れています。
私が今回、遊民和尚のnoteに感動したのは、坐禅会などを通してその人柄を知っている点も大きいかもしれません。直接お会いして5分も話せば皆さんにも理解いただけると思いますが、遊民和尚はいわゆる根っからの陽キャでしょう。これに関連して、以前noteで「底なしの明るさ」が人を照らす、という内容の記事を書きましたが、まさにそうしたお人柄であることは、TiktokやInstagramの動画の画面越しからも伝わってきます。
逆に言えば、(大変失礼な表現かもしれませんが)そうした人であっても、このような過去の奮闘があり、その苦しみの中から始めて切実な思いが生じることもあるのか、と新鮮な気持ちになりました。そして、それは「育ちが悪い(基本的に他人を信頼しない)」私のような人間にとっては、誰しもが直面する問題である、という意味である種の福音にもなります。
また、こうした遊民和尚の人柄はNumaさんのブログ記事からもよく伝わってきます。心にあるネガティブな出来事を引き出してもいいと思えるような、そうした自然な明るさが、Numaさんにも届き、だからこそこのように自身の感情を素直に吐き出せたのだと思います。Numaさんの人柄もよくわかる(坐禅会で何度かお会いしてお話したことがある)大変すばらしいブログですので、是非一読をお勧めします。
それにしても、私たちは「失って」から始めて喪失した対象の「価値」に気づき、そこから生じる切実な想いが、私たちを本気で行動させる、ということだと、つくづく思うばかりです。その意味で、私たちはやはりどうしようもないほど「愚かな」存在であるのでしょう。やはり、この「愚かさ」をことごとく痛感させられた後で、同じ過ちを繰り返さないよう「いかに行動するか」、そこが私たちに残された選択の自由でしょう。
また、実はこの話は以前お会いした時に個人的にお聞きしたことがあり、「とてもいい話でみなさんにも響くものがあると思います。文章もしくは動画にはなさらないのですか?」とお聞きしたところ、「(今のところ)そのつもりはない」との回答でした。今回改めて公に後悔することになった理由を、次回直接お会いした時に是非お聞きしたいところです。
さて、そんなわけで話はフリーレンに戻りますが、2クールの最終話の28話、これが本当に素晴らしかったです。まさに最終話にふさわしく『葬送のフリーレン』というアニメを総括する内容だったと思います。原作を読んだときの印象としては、1級魔法使い選抜試験編は、個人的にイマイチと感じていたので、これには正直驚きました。やはり、今作はアニメでより素晴らしくなったという印象です。
その28話の良い点すべてを語ると、とんでもない文量になるので、ここでは個人的に響いた部分だけの紹介とさせていただきます。何より、私の心に響いたのは28話のラスト3分程度です。ここに、フリーレンという作品の魅力が詰まっています。その前にフリーレンというエルフについて、簡単に確認しておきましょう。
フリーレンについて
フリーレンにとって、ヒンメルという存在の死を通して、「人間」を知ろうとする旅が始まります。それは彼女がヒンメルの死を通して、始めて彼という存在(ハイター、アイゼンを含む)、ともに過ごした10年という時間が自らにとって大事なものであったからに知ったからに他なりません。これが、失うことで大切なものに気づく、という「愚かな」部分です。そして、彼女は"自分のために"人間を知ろうとする旅を始めます。そうして旅をする中で、フェルン、シュタルク、ザインという仲間と出会うことになります。特にアニメ1期に関しては、ED映像にも露骨に表れているように、次世代の彼らとのやりとりを通じて、動画でVupasamaさんが言うように、ヒンメル達との冒険をやり直して(生きなおして)いる部分がとても強い。
フリーレンは一番後ろでヒンメル達の後ろを追いかけ、
現在のフリーレンの目玉が、その記憶を振り返っているようにみえます。
一方2期の28話において、この構図は明確に変わっています(後述参照)。
アニメ28話「また会ったときに恥ずかしいからね」の意味
さて、いきなり核心部分の28話のタイトルについてです。アニメではその意味が、原作よりも強調されるようになっていました。解説するのも野暮だと思いますが、フリーレン達がカンネ、ラヴィ―ネと別れるシーンから詳しく見ていきましょう(私が皆さんと共有したいのです)。
①のシーンについて、Cパートで再び戻ってくるという意味で、とても大きな意味を持ちます。何度も言っていますが、フリーレンという作品は徹底して現在に戻ってくる作品なのです。
②において、フリーレンが「ヒンメルってあっさり人と別れるよね」と指摘し、アイゼン「らしくない気もする」、ハイター「彼とは毎日のように酒を飲みかわし・・・(アニメオリジナル)」と同調します。
※ちなみに原作だと過去のシーンに入る前に⑨のフリーレンの表情が挟みこまれており、アニメ版の方が、フリーレンが「今を生きている」ことが強調される表現となっています。※最後に原作の該当シーンも載せておきます
③のシーンが何よりも重要でしょう。タイトルの意味は実は”ここ”に込められていると言ってもいい。ここでヒンメルは「僕たちには涙の別れなんて似合わない」と言います。
③の後に、④のシーンでフリーレンによる「何もわかっていないな、こいつ!」という無表情のシーンが入ります。これもアニメオリジナルですが、大変素晴らしい表現です(理由は後述)。
⑤のシーンの後こそが大事なのですが、この後に徐々にフェードアウトしていき、エンドロールへ移行します(③のあたりからかぶさるようにED曲の『anytime anywhere』が流れて始めている)。この⑤の後のフェードアウトし、一瞬暗くなってからEDに入るのですが、ここで⑤におけるヒンメルの言葉の意味を理解した上で、視聴者はエンドロールに入ることになります。下に抜粋します。
ここから、ヒンメルが「また会ったときに恥ずかしいからね」と言ったのは、文字通り「再開した時に、(もう会えないと思っていたから)恥ずかしい」という意味だけではないことがわかります。
③のシーンを思い出してください。「涙の別れは僕たちには似合わない」とヒンメルは言いました。それは、何よりもなんでもないような冒険”こそ”がかけがえのないものであることを、彼は誰よりも知っているからです。そしてこれは、「別れの際は、かけがえのないもの(=魔王を倒す冒険のこと)を思い出してほしい」という彼の美学でもあります。そのことを伝えるために、敢えて狙って③の場面からEDを流したのでしょう。そしてこれは、2クール目で2番からのEDではなく、あえて変えていることからも製作側によって意図的に仕組まれたものであることがわかります。
そしてエンドロールにおいて、⑥のお墓、⑦のアイゼンの祈る姿を通してさらに私たちは、私たちにとって大事であった人達の別れの場面ではなく、亡くなった大事な存在について、その「かけがえのない場面」を思い出すことになる(これについては後にさらに詳しく述べます)。ちなみにこの⑥⑦両方ともアニメオリジナルの場面であり、一枚絵でフリーレンたちの物語の余韻に浸りながら追い打ちをかけてくる効果があり、これが本当にいい味を出しています。フリーレンがヒンメルとの冒険を「かけがえのないもの」として思いだしたように、私たち自身の過去のかけがえのないものを、想起させてくれます。そしてそれは、フリーレンが今を生きるために、思い出すように、前を歩くために思い出す(自らを物語る、再解釈する)行為です。
さらに、このシーンを経て、一話のヒンメルを弔う教会のシーンで、なぜ原作において(アニメは少し異なる)アイゼンとハイターが笑っていたのか(泣いていなかったのか)、その本当の意味が視聴者にもわかります。やはりアニメと原作、両方見ていただくのがお勧めです。
彼ら二人はこの時、ヒンメルとの冒険という「かけがえのない思い出」を思い起こしていた。そしてこれは、彼の死を悲しむことよりも、「(くだらない)かけがえのない思い出」がはるかに重要であること、それを彼らが心の底から理解しているからに他なりません。かつては理解できなかったヒンメルの「また会ったときに恥ずかしいからね」という発言の意味を、この時には、二人はしっかりと理解している。フリーレンという作品は、徹底して時間をかけて理解すること(そして、その肯定)を表現しています。「今、ここ」のかけがえのなさを伝えると同時に、「今、ここ」で理解できなくても、(死後であっても)いつか分かり合える、そこに「救い」があります。作中における魂の眠る地という概念も、まさにその象徴でしょう。
やはり、どちらか一方だけではなく、この二段構えで人生を肯定することが大事でしょう。私たちは「生きること」に臆病であるし、かといって「死ぬこと」も怖い。その事実を踏まえた上で、ではどうやって生きていくのか、そのヒントがこの作品の中にあるように思います。そして、前半のnoteで書いたように、これは生も死も含めた私たちが「生きること」、その生命賛歌に他なりません。
現代において、私たちはこのうち「生前の」互いを理解することで共に生きる方向ばかりに目が向いていますが、これが茨の道であることは、改めて説明する必要はではないでしょう。私が思うに、フリーレンという作品の凄さのひとつは、現代の「価値(善い)」とされていることとは反対のことを説きながら、にもかかわらず、圧倒的な説得力で視聴者を感動させている点です。こうしたところからも、創作物の価値を感じるものです。
エンドロール後のCパート⑧は、「今」に戻ります。この作品は、一貫して現在に戻ってくる。それは何度も言うように私たちが生きる「今」が何よりも大事であるからに他なりません。⑨において、フリーレンが過去の懐かしい思い出を振り返りながら微笑み、⑩で「また会ったときに恥ずかしいからね」と言います。
この⑩のシーン、これは他人から意味を説明してもらうものではなく、自らで納得する事/体験する事が大事であること、そして、彼ら二人なら(フリーレン自身がそうであったように)必ず理解できる、という信頼をしているからこそ、その理由は敢えて黙ったまま、「また会ったときに恥ずかしいからね」と言ったわけです。それは、パーティーというのは、時には背中を仲間にあずけることが大事である、という過去の冒険からの教訓でもあります(ザインに背中を託した話もありました)。ここでは、ハイター、アイゼンだけでなく、フリーレンもヒンメルの言葉の意味を理解できるようになった(成長した)ことを示しています。
また、⑨の微笑のシーンは原作にもあるのですが、原作とは少し異なる表情です(下参照)。アニメ版の方は、真横からのアングルで前を見て歩いているフリーレンが彼女は「今」を自らの足で確かに歩んでいることが、より強調されています。一方原作の方は、過去を思い出し、懐かしんでいることによりフォーカスが当たっている表現となっています。
また、原作と異なる点としては、①より前の場面において、フリーレンが先陣を切って歩いていることです(原作では横並び)。ここでもフリーレンがフェルンとシュタルクを、かつてのヒンメルのように導いていることがわかります。フリーレンは幼少期から一緒に旅をしているフェルンの大事にしているもの"さえ"、よくわからないほど、人間の感情の理解について鈍い部分があります。それは、ハイターの杖が壊れた時の「壊れたんだから、新しいの買った方がいいよ」というコメントに、まさに顕著に出ているでしょう。しかし、そうした人の感情を理解することが苦手なフリーレンであっても、それでもパーティーのリーダーとして(実質的にリーダーと言っていいでしょう)、次世代の若者を彼女なりの仕方で導くことができる。そして、そのことにフェルン、シュタルク双方が心から納得している。ここに、私のような不器用な人間は感動を覚えます。
現代では「欠点をなくすこと」、「できないことができるようになること」これらの「価値」が「一方的に」強調されています。特に日本では、「これができなければ、社会で生きていけないぞ!」と常にナイフで互いに脅しをかけ、相互監視しているような雰囲気があります。私見ですが、これこそが現代日本人が「生きづらさ」を感じる大きな要因である気がします。そして、このように互いにナイフを突きつけ合っていることの裏返しが、「AIがこれ以上発達したら、私たちの仕事がなくなってしまうのではないか?」という過剰な恐怖にも表れている気がします。
前半でも述べましたが、私たちにはどうしようもない能力的な限界が存在します。私たちは自分で思っている以上にできることもあれば、どうしようもできないこと、この両方が存在するのであり、後者があっても生きていけることは、もっと強調されていいでしょう。本作ではフリーレンという、とても不器用な存在が、その証明となっています。そして、彼らのパーティーがどこかそれぞれ非常にスキルの低い部分があることからも、私たちは完璧超人にならなくてもいいと、ネガティブではなく、ポジティブにそう受け止められる優しいメッセージを感じます。
さらに28話のアニメにおける追加部分も、大変素晴らしいものです。こちらも詳しく見ていきましょう。
⑪において、フェルンの頭をなでるフリーレン。かつては頭をなでるのが下手だったが(力が強すぎて、皆少し痛そうであった。)、今回は全くその様子はありません。頭をなでる行為についても、彼女が確実に成長していることがわかります(笑)。
そして、⑫はアニメオリジナルのシーン。フリーレンが「自らの意志」で積極的に弟子を育てることに喜びを見出しているシーンです。物語当初においてハイターに「弟子は(自らより弱く)邪魔になるからとらない」と言い放った姿からは、信じられないくらいの変化です。ここからも、ヒンメルの後をただ追っているわけではなく、彼女なりのやり方で人間と関わり、生きていくことの決意が見て取れます。
しかし、なぜフェルンはここで驚きの表情を見せたのでしょう。いくつか理由が考えられると思いますが、私が思うに、それまでのフリーレンはめったにフェルンを”弟子として”ほめたことがなかったからでしょう。少なくとも本編で、明確に直接フェルンを自らの弟子としてほめたことは、このシーン以外ではなかったはずです。これはフェルンの問題ではなく(実際、フェルンの魔法の才能について当初より認めている)、フリーレン自身の問題です。ここでは、彼女が、自らの意志で弟子を育てることを受け入れたことを象徴するシーンになっています。
そしてこれは、自らよりも確実に早く死ぬ存在である「人間」であっても、彼らと関わることが、自らにとって「意義あること」の証左でもあります。「他者」と関わること、この「価値」を、フリーレンが自らよりも短命であるヒンメル達から学んでいます。このことも、命の長さ"それ自体"が「価値」があるわけではないことを示しているでしょう。これは、寿命の長さ程度"しか"社会的に善いことである、というコンセンサスが取れなくなってしまっている現代とは大きく異なります。このことに関するアンチテーゼも、このような描写からも感じるところです。また、ゼーリエの予想を超える偉業を達成したゼーリエの弟子フランメについて、ゼーリエが嬉しそうに話すことからも伝わってくることです(下参照)。このように「命が短い」からこそできることもある。このことを、言い張るのではなく心から「肯定」する。これができなければ、結局は命の"長短"でその価値を判断することになり、「生命が尊い」などは、ただの綺麗ごとになってしまう、と個人的には感じます。
このようにフリーレンという作品は、漫画の副題にあるように「生きとし、死せるもの全ての人たちへ捧ぐ。」物語であることがよくわかります。
また、フォル爺との別れの際は、当初は10年滞在してフォル爺と話すことを望んでいたフリーレンなのに(当然だがフェルンに止められた)、余りにもあっさり別れたことも、彼と楽しく話した想い出の方が、何よりも大事であることを伝えてくれます。
特に中段の引用は、彼女が、自らの意志で、人々の記憶を伝えることを静かに決意していることがわかるシーンです。まさに「葬送」のフリーレン(タイトル回収)。
・アニメ28話の解説部分の原作表現
アニメ28話と『anytime anywhere』から想起した個人的な思い出
さて、ここからが今回一番noteにしたかった内容なのですが、前段が大変ながくなってしまいました。既に言及した通り、『葬送のフリーレン』は、私たち自身の過去の記憶を想起させ、再解釈させる力をもっている作品です。そして、その想起された過去を後悔するわけでも、否定するわけでもない、「今これから」を生きるために再解釈させてくれる、「あたたかさ」を持った作品です。
最期に、28話を観て、私が思わず再解釈してしまった「個人的な体験」を語らせてください。
その前に、『葬送のフリーレン』という作品を想起させる『anytime anywhere』の歌詞を確認しておきましょう。エンドロールで流れるこの曲を聴きながら、私は過去の「かけがえのない記憶」を再解釈することができたからです。詳しく説明しませんが、このnoteで私が解説した大部分について、引用歌詞の太字の部分でほぼ全て説明している、そういっても過言ではありません。
※ネタバレになるので今回深くは言及しませんが、原作においてなぜ過去編でフリーレンがあの決断をしたのか(前回動画の道宣さん発言を参照ください)、はある意味で今のフリーレンにとっては当たり前であることがわかります。それは、28話を観てもそうですし、原作を見ても、さらっとその答えを本人の口から語られています。そして、それについてヒンメルの反応も素晴らしいものです(ネタバレをしたくないので、抽象的に解説しました)。
上述した⑥⑦の部分で流れる歌詞が、「ほらこの目じゃなければみえなかったものが どうして? 溢れていく」の部分にあたるのですが
(この演出が、完全に視聴者の過去になくなった人を想起させる意図を持っている)、ここで見事に私の祖母のことを思い出させられました。ここからは、その一連の想い出について語っていきます。
祖母は私が幼稚園児の頃にがんで亡くなったのですが、亡くなる前の数カ月間は(末期がんで治らないということで)、自宅で過ごしていました。そして、これは時代の限界性による典型例ですが、当時主流であったように、祖母本人にはその旨は伝えられていなかったようです。患者の知る権利が当たり前の現在においては、考えられないことだと思いますが、わずか25年ほど前は、こうした対応が当たり前だったのです。また、後から母に話を聞いたところ、当人が体調が一向によくならないことを理解していたので、重病であることはわかっていたのではないか、とのことですが。
この余命数カ月の間、祖母がよく私の家に来て(車で40分程度離れた所に住んでいた)、私の面倒をみてくれていました。私の覚えている限り、園児時代のポジティブな記憶は、この祖母と過ごした「なんでもない時間」だけです。その他は、ひたすら幼稚園の室内でブロック遊びをしていたこと、かけっこで学年の下から3番目だったこと、お遊戯会でカラス役でカーカー鳴いたこと、くらいしかぱっと思い出せません。
そして、祖母が亡くなり、私は父親に連れられ、亡くなった祖母が眠る病院のベッドに着いたとき、始めて「人が死ぬこと」を知りました。この時、ベッドで横たわった祖母を遠くから父の手を握りながら見ている風景だけは、今でも鮮明に思い出せます。このあたりは記憶があいまいなのですが、その時父親から「人が死ぬこと」を説明され、祖母の手を握るかどうか聞かれた気がします。しかし、私は握りませんでした。はっきりした理由は不明ですが、恐らく、とても怖かったのだと思います。この体験が直接的な原因かはわかりませんが、私の奥底には今でも「恐怖」というものがある気がします。そしてアイゼンのように、この「恐怖」こそが、色々と考えるきっかけとなったという意味で、私を成長させてくれた気もするのですが、瞑想のような実践をしている身としては、いつかこれと向き合う時が来るのだろう、とも思います。
それはさておき、祖母の死と死者の身体を目の当たりすることで、「今生でどれだけのモノを積み上げても、死というもので全てご破算になってしまう(だろう)ことを知った」私は、これ以降モラトリアム期を終えるまで、自らの人生を生きることはできませんでした。それは、以前にも書いたとおりです。
そして、この祖母との「かけがえのない記憶」をトラウマを隠すように、この20歳頃まで完全に忘れていました。それはおそらく、当時(園児)の私にとって米津玄師さんにおける祖父との感覚に近いものだったのでしょう。(リンク!)
しかし、まさにちょうど「この社会で生きていく」決心がついた頃だったと思うのですが、祖母とのかけがえのない思い出の象徴である、ポケモン(ウインディ)のマグネットを、たまたま実家で見つけたのです。
このポケモンのマグネットを見た瞬間、この(当時私が好きだったウインディ)マグネットを祖母の家の近くのスーパーで一緒に買いに行ったこと。そして、当時失くしたと焦っていたのに、実際は祖母のポケットの中に入っており、取り出した際に便器の中に落としてしまったこと。便器からマグネットをとりながら笑っていた祖母の表情(この表情は、フリーレンが想起するヒンメルの笑顔と重なってしまう)、これら一連の記憶を走馬灯のように全て想い出したのです。そして当時母に、「このマグネットどうしたの?」と聞いたところ、「たまたま掃除していたら見つけたんだよね。」と言われました。
ここまでは『葬送のフリーレン』の28話を観る前の話です。今回、このエンディングクレジットを観る中で、改めてこの記憶を振り返る中で、私の中で「再解釈」が起こりました。そういうきっかけをくれたのです。恐るべきアニメ28話、と感じます。
続けます。私の実家は、中部地方の郊外のベットタウンにあるのですが、そこには、戦国時代の輝かしい歴史が残っていながら、そういった歴史を大事にすることはない残念な風土があります(織田信長に関連する場所もあったりする)。そして、土地は安いので人口だけは微増し続けているのですが、その結果が数億円かけてスーパー銭湯を作るなど、資本主義のイデオロギーに完全に染まっているものです(実際、街が生き残っていくためには仕方がないことくらいは、私もわかっています)。
街としての歴史と現在が断絶しており、都会にもなりきれず、田舎の良さも全くない中途半端な街、それが私の故郷です。そんなものだから、私は故郷の話になった時には、人に「私は根無し草なんですよ。故郷がないから、同じ場所に定住することがないんです。」とよく他人に語っていたものです。実際、大学進学時にはすぐに実家を出ました。
しかし今回改めて、祖母との記憶を振り返る中で、すぐに息子の物を捨てる母親(私の世代までの母親とは、そういうものでしょう)が、ポケモンの汚いマグネット(当時の時点で15年程度経っている)を保管していた理由(それは、当時の母が私が大切にしていたことを知っていたからに他ならない)、それを保管していたのが母であったこと(母の実家の近くに私の実家もある)、そのマグネットが祖母との記憶を思い出させる外部記憶装置になったこと、そして何よりも祖母と過ごしたのは私が嫌いな故郷だったこと、これら全てが繋がった気がしました(再解釈)。
今では母は、ポケモンのマグネットを保管していた理由を忘れています。祖母との思い出を何度説明しても、「あんたが小さい頃におばあちゃんは亡くなったからほとんど覚えてないでしょう」と全く相手にされません。しかし、そんなことはもはや私にとってはこの事実に比べれば、ほんの些細なことです。
当時の彼女がマグネットを保管していたからこそ、私は祖母との「かけがえのない」記憶を思い出すことができた。そして、それは私が嫌いだとその存在を受け入れられない故郷という場所での想い出であり、この汚いマグネット"こそ"が祖母から母、そして私へとつなぐものであった。これは私が生まれ故郷を受け入れるために、まさに必要なプロセスであった、とそう再解釈しました。この時の喜びは、それまで過去の故郷を受け入れられなかった後悔などを優に超えるものです。それは、今期のアニメで言えば『薬屋のひとりごと』における24話の羅漢の喜びに近いものです(知らない方はごめんなさい)。
私はこの過程を経て、ようやく自分が生まれ育った故郷という存在を認めることができたのです。これは現在の故郷をすべて受け入れる、ということではありません。今の「私」という存在を紡ぐにあたって、この生まれ故郷でなければならなかった、という運命として受け入れた(再解釈)ということです。そして、故郷という存在を認めることができていなかったことにも、同時に、始めて気がつくことができました。
このような私の再解釈について、本作に結び付ければ、フリーレンの師匠であるフランメが一番好きな魔法が「花畑を出す魔法」であること、そして、気まぐれでこの魔法を迷子のヒンメル少年にみせたかつてのフリーレン、その魔法をみたことによってフリーレンとパーティーを組むことを決意したヒンメル、このすべてが「偶然であった」とアニメ27話でも言われているように、実際はただの「偶然」でしょう。
特定の宗教を信仰していない現在の私にとって、仮に「運命」というものがあるのだとしたら、現在の「私」というパッケージされた存在から遡行的に過去を振り返った時に、今の「私」を作り上げるうえで、これは必ず必要であった、そう後から解釈するしかない(と考えるしかない)出来事のことを「運命」と言いいます。したがって、わたしにとって「運命」という言葉は、非常にポジティブな意味を持つものです。
そして、まさに私の祖母と母と故郷の出来事は、私が生まれ故郷を受け入れるうえで、必要な一連の出来事であり、私にとって「運命」であった、心からそう思います。もちろん、ここで述べた一連の話は、私の個人的な世界観の話です。
また、私にとって生まれ故郷を受け入れるうえで、始まりであった祖母との「かけがえのない思い出」は、私が「今これから」を歩むために、いつ思い出してもいいことも、『葬送のフリーレン』という作品の力が、私に承諾させてくれました。
実は私たちは常に、過去の自分と現在の自分の整合性を取るために、些細なことならば、実はいつだって「再解釈」をしています。ただ、自らにとって「トラウマ」となっていること、「思い入れの強いもの」に関しては、私たちが「まっさらな状態で」ふたたび解釈をすることは、なかなかできません。これは、仏教的に言えば、私たちが「手に握りしめている」からということになるでしょう(これを「執着」といい、それを「手放すこと」を頻繁に語られる)。まさにそれを手放すために、実践(瞑想、坐禅など)をするわけですが、『葬送のフリーレン』という作品にも、似たような力があると思います(同じとは言いません)。それは、俯瞰的視点によって私たちが意固地になって掴んでしまっている過去の記憶を一度「手放し」(ファイティングポーズを止めさせる)、そしてそれを今一度掴むこと、その勇気を与えてくれる、そんな力です。
私の言ったこれまでの話を痛感させる場面を、以下に抜粋しておきます。
ーーーーーアニメ組は、微妙ネタバレ注意(個人の責任で原作からの引用を閲覧ください※決定的なネタバレではありません)ーーーーーーー
この『黄金郷のマハト編』では、七崩賢のマハトに注目が集まると思うのですが(私もそうでした)、デンケンというキャラクターも注目に値するでしょう。彼がなぜ一級魔法使い選抜試験編であそこまで合格することにしがみついたのか、その理由が全て明らかになります(ネタバレになるのでこれ以上言及しません)。そして、どれだけ年をとっても、私たちはまだやりなおせる(「今これから」を生きる)、という本作の温かいメッセージ(生命賛歌)がここにも徹底されています。今からアニメ化がとても楽しみです。
『葬送のフリーレン』という作品が、素晴らしいことは十分に伝わったでしょう。そして、本作の白眉な点は、私たち自身の中にある過去のトラウマを、もう一度、ネガティブな要素を省いた状態で(≒そのポジティブな部分を照らして)想起させてくれることにあります。
タイムマシンの発明はまだしばらく時間がかかりそうです。私たちは「過去自体」を変えることはできません。そして「過去自体」を変えることは、パッケージされた私の「生」を否定することに他なりません。また、私たちは確かに「今」この瞬間を生きていますが、それと同時に過去からの積み上げられた存在としての「私」としても、この社会で生きています。前者を徹底的に極め、後者を徹底的にそぎ落としていくのが瞑想だと思います(それこそが「救い」になる部分がある)が、私としては、どちらもとても「価値」あるものだと思います。
この社会で生きていく「私」という存在(物語)は、サンガにでも籠らない限り、完全に放棄して生きていくことはできないでしょう。そして、フリーレンという作品は、まさに前者の重要性をくどいほど繰り返し説きながら、後者のパッケージされた「私」という観点もとても重視しています。私のように、自らの問題を解決するために「瞑想」実践をしているような人間にとっては、本作はその具体的な生き様としてヒントになる部分が多分にありました。
私たちは「今これから」をどうやって生きていくか、それはいつだって変えることはできます。そのように「今これから」を踏み出すためにこそ、パッケージされた私たちの「生」自体をもう一度、まっさらな状態で「再解釈」するきっかけ=勇気を与えてくれる、そんな温かさを持った作品、それが、私にとって『葬送のフリーレン」という作品の最大の魅力です。そして、まさに私の故郷に対する「再解釈」をする機会を与えてくれた本作には、心から感謝するばかりです。そして、本noteではそこまで強調しませんでしたが、互いに理解できずとも、異質な存在としての他者を受け入れることができ、それと同時に死後に分かり合うことができる、というメッセージも大いに共感する部分がありました(こちらについても、機会があればより詳しく文章にしたいです)。
最期に、ここまで読んでくださった読者のみなさんにとっても、『葬送のフリーレン』が、「今これから」を生きるうえでのきっかけになることを願ってやみません。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?