映画『放浪記』成瀬巳喜男 監督
映画『放浪記』1962年・日本/成瀬巳喜男・監督
どうにもこうにもいかない。
金も仕事も男も。何もかも上手くいかない。
だが、生きるしかない。
あらすじ
時は昭和初期。行商、女工、カフェの女給と職を転々とするふみ子。ある日、自分の書いた詩が劇作家・伊達の目にとまり、同人誌の仲間にさそわれる。やがて、2人は一緒に暮らすようになるが、それも長くは続かない。
林芙美子の同タイトルである自伝的小説を映画化したものである。
まともな仕事がない。
お金もない。
ろくな男にも恵まれない。
ふみ子は水商売の傍ら、本を読み、詩を書く。
結局、自分がしてきた経験を書くことで自分を食わせることになる。
映画作品として、力のある作品と言える。
物語として上手くいかないのがいい。
心がぐらぐらするのがいい。
俳優陣の魅力も半端ない。
それぞれの役が活きていて、見応えありまくり。
高峰秀子は最初から最後まで小気味よくずっとやさぐれている。たまらん。
中盤、夫に殴られて髪を振り乱して泣くシーンがある。
迫力にわたしは唸るしかなかった。
自分がもし、ふみ子だったら。
ふみ子と同じ境遇だったら。
彼女のように明日もわからない日々を強いられたら。
あなたなら、わたしなら、どう生きるだろう。
ふみ子のように、やさぐれながらもがむしゃらに生きれるだろうか。
愛した男の原稿を必死になって売り込みに行けるか。
先もわからない日々なのに、入ったばかりのわずかな原稿料で洋食食いに行こうって、言えるか。
怖い面した男らに、対等に思ってることぶち撒けて言えるか。
ふみ子は、読むことや書くことが何よりもの栄養だった。
精神の栄養を絶やさずに養えられたから、生きることができた。
自分で自分を養っていた。
男や金や家族に頼らず。
本作のなか、ふみ子は自分の不運を嘆いて、神様に語りかける。
何度も、何度も。
ことどとく上手くいかないから、神を恨んでいたかもしれない。
けれど、神は裏切らなかった。
神は、居た。
だが、もう打たれ慣れてやさぐれを通り越したふみ子にとってみれば、自分の力で成し得たんだよって、そう言いそうな気がする。
不幸は不幸にあらず。
人を強くしてくれる、何よりもの栄養だったりする。
筆者:北島李の
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?