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スペシャルな毎日で「普通」を共有できる事は、奇跡なのかもしれない。〜ニューノーマルな年度末に思う事。

春です。
日本全国から桜の便りが届いています。
でも春って、高揚感と倦怠感を花粉と一緒にまとめて運んで来る、ほんとに厄介な季節だと思っています。

春は一年で最も出会いと別れが錯綜する季節で、単純な私は毎年この時期「今年度」について色々懐古してしまいます。
終わりに差し掛かった今年度(令和2年度)は、パンデミックイヤーという特異な年でしたが、私にとってはアラフォーであることが深く染み入る年度でもありました。

世界の常識が一変し、否応なしにニューノーマルに即時対応することが求められ、その中でやりたいことをしてきた自負はありますが、当然いつもより多くのことを考えさせられました。
そして例年に比べ発散できる手段が限られていたために、目の前のことへの向き合い方もちょっと特異でヘヴィーだった気がしています。

3月は、3.11東日本大震災を振り返る時期でもあり、毎日がスペシャルなんだと思わずにはいられません。
今お別れする誰かは、もう一生会うことがないかもしれないし、新しく出会う誰かが、自分にとってかけがえのない存在になるかもしれない。

歳を重ねると、「直感力」より「直観力」、つまり経験に頼って物事を判断するようになります。
これは私自身実感していて、自分のこれまでの体感をベースに目の前のタスクや人に向き合うようになります。
しかし、当然自分の直観に従って行動しても、予想通りにならない事は多々あります。

そんな時、ふと考えるのが、「普通ってなんだろう」です。

私が20代だった頃に比べて、今世界は本当に多様で、何でもできそうで、でも何かする際の障害も多いような気もします。
狭い世界で生きていても、自分が抱いている常識のイメージや普通の感覚を共有する事は難しいのかもしれない、と思う場面に出くわすことが増えてきました。
自分の「常識」や「普通」も日々変わっていて、多様な人間がそれぞれに変異するそれらを持っているのであれば、逆に同じような価値観を持っていることの方が、ものすごい奇跡なのかもしれません。
“ordinary person” とか ”common sense” についての自分の感覚を共有できる人は、私にとって非常に”Special” なのだと、最近富に思います。

自分にとって “スーパースペシャル普通の人” の定義を考えてみました。

・恐る恐る話しかけなくていい人
・返ってくるリアクションが持つ意味合いについて頭を悩ませなくていい人
・思ったことを反射的に口に出しても後々面倒なことにならない人
・会話の展開のパターンをいくつも予想しなくていい人
・同じ事を何度も繰り返し聞かせなくていい人
・伝え方についていくつもバリエーションを用意しなくていい人

列挙してみると、この真逆の特徴を持つ人たちに囲まれて長らく過ごしていると、確実にどうにかなってしまいそうです。
でも、なんだか最近「生きづらさ」を抱えている人が増えている印象で、そんな人たちは、もしかしたら自分にとって "スーパースペシャル普通な人" が周りにあまりいないのかもしれません。
たった一人居るだけで心は安定します。
「分かるよ。」って言ってもらえるだけで救われる事って本当にあります。

ジョン・レノンのように "I’m quite normal." と言える自信はありませんが、私は自分がそこまでぶっ飛んでいるとは思っていません。
でも、みんなそうなのかもしれないな。

誰かと「普通」を共有できる事はスペシャルな事だけど、自分自身が誰の基準か分からない「普通」の枠に収まる必要はありません。

ナンバーワンとかオンリーワンとかスペシャルとかノーマルとか、自分の事を位置づける必要も無いし、「毎日がスペシャル」っていうのも、そうなんだけど、気負いすぎるとしんどいよねって話です。 
毎日がスペシャルであることに関しては普通に感謝しながら flat な気持ちで日々過ごす、くらいの距離感が取れれば最高。

「普通」に明確な答えはないし、いつも通りに行かないことも多いけど、「普通」という価値観や感覚を普通に共有できる人と出会える事は、実はとても奇跡的なのかもしれないと感じているニューノーマルな年度末です。

三寒四温の候、皆さまご自愛ください。

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