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つまり、そういうことだ㉒

ここまで書いてきたことは、ほぼ一言(〓ひとこと)に集約される。
「おまえは、存在の玩具(〓おもちゃ)である」ということだ。
そして本来の「おまえ」とは、玩具ではなく、存在なのだということを伝えるために語ってきた。
しかし認識は玩具の身に収まっている。存在は、認識を通さなければ遊戯を楽しめない。
だからどうしても玩具の立場からしか物事を見ることができない。玩具は遊ばれているときのみに存在し、遊ばれていないときは放置されている。
放置状態のときは、パターン化された反応を繰り返し、NPCとして過ごす。

存在に怒りを感じるかもしれない。誇りを感じるかもしれない。あるいはあまりに壮大過ぎて空虚さを覚えるかもしれないし、何も想わない(理解できない、信じられない)かもしれない。
人は、ゲームに熱中する。
熱中しすぎて中毒になり、ゲームをしていないと落ち着かない人もいる。度を超えた課金をし、人生を破綻させてしまう人だっている。
おまえが自分が存在であることを感じられないとすれば、存在の遊戯に惑溺(〓わくでき)しすぎて、まるで玩具が自分そのものであるがごとく錯覚している状態かもしれない。

ここから書くことを一言に集約しておこう。
「存在の自分を自覚しながら、玩具の自分に臨場する」
つまり、自分を俯瞰しながら、同時にリアルに喜怒哀楽を味わい、主体的に大歓喜するということだ。

おまえは存在である。と同時に玩具でもある。
本当に遊戯を楽しむ、歓喜するためにはこの二段階の臨場感を両立させねばならない。
ゲームに夢中になりすぎて、自分が画面の中に生きていると信じ込んだ人間が充実した人生を送ることはない。
なぜなら、存在の遊戯を楽しむための感覚器官を、存分に活用できていないからだ。
RPGゲームの中のカジノに夢中になりすぎて。、いつまでも冒険をしないプレイヤーは、ゲームをちゃんと楽しめていないというのと同じことだ。

おまえは存在である。と同時に玩具でもある。
では、この存在の遊戯を楽しむ、歓喜するためにはどうすればいいのか。
存在の側から自分を自在に動かし、玩具の側から存在を大歓喜させるプレイをすることだ。
そうすれば存在は面白がって、おまえをもっと躍動的に動かすだろう。心身の健康や経済の動向、運不運など、それらに付随するものに過ぎない。
おまえがすべきことは大歓喜、つまり自他ともの幸福へ向かう具体的な行動だ。
それこそが、存在からエネルギーを得る方法なのだ。
祈りや冥想といった行為は玩具側のおまえが、存在側のおまえに交信する手段だ。
瞑想は受信で、祈りが発信だ。

(つづく)

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