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つまり、そういうことだ⑰

すべては、視えている。聴こえている。触れているし、体内に取り込んですらいる。

逆に言えば、すべてが視られ、聴かれ、触れられ、そして溶け出し混ぜ合わさっているということだ。いま、この瞬間も。

認識できないだけで、光は反射し、空気は振動している。おまえは生成と崩壊を同時に行っている。物事は影響しあい、あまねく生命はピンボールのようにぶつかり、跳ね返しあっている。

その営みは、あまりに微細であるがゆえ、あるいはあまりに莫大であるがゆえに、そして疾すぎるゆえ、永(〓なが)すぎるゆえに、おまえの理性(認識の枠組み)に収まらず、認識が出来ない。


感覚と認識の差を埋めるものは、月並みではあるが、「信じる心」だ。

信じるとは、依存することではない。ただ、「そういうものだ」と素直に受け容れることだ。

有るか無きかの僅かな違い、もしくは信じられぬくらい大それた何か。

それらは「本当のこと」だ。

「本当のこと」は時として、おまえに多大なストレスを与える。

何故ストレスになるのか。

痛いわけじゃない、不快なことでもない、損をするわけでもない。

ただ何となく、具合が悪い。都合が悪いのだ。怖いと感じるかもしれない。

怖いとは、恐怖とは何だ。

それは痛みや恥、損害の手前にある予感だ。

認識の幅を広げ、認識の枠組みの外側のものが「在る」と認めることは、おまえに不吉な予感をもたらし「怖い」と感じさせる。


だからおまえは、それを無かったものとして扱う。あるいは、どうでもいい、取るに足らぬものと決めつける。考えても詮(〓せん)無きこととして忘却の彼方へ葬り去る。

それを認識する人は、愚かな妄言者だとレッテルを貼る。あるいは理解不能の天才だとして、とにかく「自分とは別である」ということにする。


そうして理性と現実の整合をとりながら、穏やかな生存を維持している。

理性の器は、その大きさや形において、個々に違う広がり、深み、偏りをもっている。

だが一様に、理性で認識できないものは、排除するか迎合するかで、「それを、それとして」認識する人は少ない。

(つづく)

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