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つまり、そういうことだ⑦

存在は、絶えず形を変えながら流動している雲のようなものだ。

さっき象の形をしていたかと思えば、いまはネズミになり、イルカになり、次々に相を変えていく。

おまえという存在も、いま、おまえという形をしているだけで、次の瞬間には違う相を象(〓かたど)る。

おまえの認識がその変化に追いつくことはなく、変化するものだという事実を受け容れるしかない。

しかしそれは問題ではない。

自分はひとつ上のフラクタル構造の、存在そのものだと思い出すといい。


存在は形を変えつづけている。

日は昇っては沈み、月は満ちては欠ける。

おまえの涙は水蒸気となって天に昇り、雲になって雨を降らす。

質量が集まって生となり、やがて少しずつ散らばり死と名付けられる。

テレビは瞬間、瞬間に画を変えながら、そこに在りつづける。

番組が変わっても、放送が終わっても、スイッチを切られても、テレビはそこにある。


存在とは形ではなく、存在そのものだ。

もしも「時間」というものがあるなら、おまえが「自己」を生存させる便利(都合)のために、あらゆる感覚器官からの情報の記録を線状に並べたものがそうだ。

もしも「いま」というものがあるなら、おまえが一刹那(〓せつな)ごと一指弾(〓しだん)ごとに経験している「変化」がそうだ。

存在に過去・現在・未来といった区切りはない。

それは、おまえが「生存」のために造った表計算のセルでしかない。

それは断片的な目撃情報を記録したものの羅列であり、おまえではない。


つまり、時間とはおまえの思い込み、信じ込みであり、それは、おまえの存在とは何の関係もない。

「重要な関係がある」と信じ込んだ方が、生存のためには都合が良かったから(便利だから)、そうしてきただけだ。

おまえが心と思っているものは、記憶だ。ハードディスクやUSBメモリーみたいなものだ。

記憶がおまえの行く方向を決定づける。

記憶はおまえという人間の像を確定させる。

記憶に従うことが正しいと、おまえは信じ、思い込んでいる。


おまえにとって、不都合な記憶がある。

健気に、マジメに、倦まず弛(〓たゆ)まず心を痛めつけつづける「それ」は、ただの情報だ。

一歩引いてみれば、エンタテイメントだ。

そこに臨場感を持たず、主観的に見なくて済む立場からすれば、演劇の一コマでしかない。


おまえより不幸な人はたくさんいる。

おまえの想像を絶する劣悪な環境で、生命を危険にさらしつづけながら、日々を耐え抜いている人は存在する。

それをおまえは当たり前のように知っているが、おまえが心を痛めるのは、自分の記憶の方だ。

つまり酷い事実がおまえを痛めつけるのではない。

臨場感がおまえを痛めつけるのだ。


存在は形を変える。

おまえの記憶も、過去に起こった事実さえも、変えることは可能だ。

過去は、もう無いからだ。

過去とは、おまえの記憶の中にしか無いものだ。

(つづく)

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