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愛とは、絶対に許してはいけないことを絶対に許さないことだ。

あとがきにかえて――元妻ビギンズ(前回の続き)

① 罪を憎んで人を憎まないのは、何のためだろう。
罪人を憎んでも失われたものが取り戻せないとき、二度と同じことを繰り返さないために、人ではなく「罪」そのものを憎む必要がある。大切なのは罪が起こらない世の中をつくることであり、酷いことをされても許すべきだという話ではない。

② 他人と過去は、本当に変えられないのだろうか。
他人に期待しても不毛な場合・・・・・・たとえば多くの人に自分が誤解されてしまい、地道な積み重ねでしか信頼を取り戻せないと分かっているときなどは、自分が変わることで未来をより良いものにする態度が必要だ。しかし、ある人に働きかけ、相互理解が出来れば、未来が開けるという場合もある。例えば、子供を連れ去った妻と対話の末に、子供の成育のための協力関係を作れたら、どうだろうか。連れ去りという出来事の意味、お互いへの想いも変わる。過去や他人を変える努力をすべき場合もある。自分が変わればいいと思えば、気持ちは楽だ。他人への働きかけを支えてくれる。大切なのは、バランスだ。

③ 愛が許すことと言われるのは、なぜか。
「許す」の語源を調べると「ゆるくする」に行き着く。かたくなにならず、気持ちをゆるくして相手を受け入れることは大切だ。しかし自分の愛する人を傷つけた人間に対してはどうだろうか。あなたを傷つけた人間を、あなたが愛する人が勝手に許してしまったとする。あなたは、そこに愛を感じるだろうか。「愛とは許すこと。許さなければ、苦しむのは君だ」。こんなことを言われたら、逆に「許せない俺を、許してくれよ」と言いたくなってしまう。愛とは、許すことだけではない。それでは部分的すぎるのだ。許すという行為は、絶対に許せないこととセットになって、はじめて意味を持つ。愛とは、絶対に許せないことを見極めて、赦せないこと以外は、許す努力をする姿勢のことだろう。

 いま、元妻に対して私は複雑な想いを抱いている。
 怒りもあるが、哀れだとも思う。感謝しているが、恐怖を感じてもいる。受けた被害が思い浮かべば、自分も相手を傷つけたと考える。
 子供たちには、未熟な親のせいで苦労をかけた。今も元妻の家では、何が起こっているか分からない。ただ子供たちは、生まれてきたときから私とは違う人間だ。親子だから似ているところも当然あるが、年齢も育ち方も違う。闇雲に「不幸な境遇」とは、思わないことにした。
 いまは、ひとりの人間として共にこの苦境を切り拓いていく同志と考えている(面会交流を通して、そう思えるようになったのだが)。このスタンスが見えてきてから、「連れ去り問題」についての捉え方が変わった。

 元妻を憎む必要はないが、彼女の弱さ・哀しさを理由にすべてを許す必要もない。悪いことは悪いと言い切り、良い方向へ切り替えていく取り組みをする。
 彼女の人間性を変えるのではなく、私や子供との接触面を適正化する。そのためには、自分の態度を変えることだ。
 下手に出て、機嫌を伺うことはやめる。法律解釈を基準に、正しいか間違っているか判断することもやめる。元妻との関係と、子供たちとの関係は、別のものとして考える(三者での関係性は、また別として考える)。この三点をまず、決めた。
 具体的な行動としては、司法のテーブルには乗らない。会わせないかぎり、カネは送らない(子供たち名義の通帳にプールはする)。自分が考える最良のタイミングで、子供たちに会いに行く(予告はするかもしれないが、許可はとらない)。
 
 子供たちは、どこにいても幸せも不幸せも感じて生きていく。離婚しなかったとしても、それは変わらない。むやみに彼らを哀れんで、自分が思う「子供たちのため」を押しつけるような真似を、もう私はしない。

 子供たちよ、強くなれ。父もまた、強くあろう。父は君たちに会いたいから、会う努力をするよ。君たちも「会いたい」と思えば、自分の立場で出来るかぎりのことをしてくれ。でも、それ以外のことでも、やりたいことは、やりたい順にやってくれよ。父はそれが望みだ。好きに生きろ。強く生き抜いてくれ。
 そして必ず、また会おう。
 笑って。
                               (了)

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