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中途半端に空腹

書きかけの記事が幾つもある。根気がないのと諦めがいいせいか、終わりかけになって毎回ほっぽりだしてしまう。成し遂げられない自分に嫌気が差すが、それも長くは続かない。まあいいか、でいつも終わってしまう。

その昔の学生時、一斉を風靡した某アイドルの熱烈なファンをやっていた。大人になってから知り合った人にそれとなく言うと、決まったように驚かれるような成長をしたが、遠征をしたり、有り金を果たすくらいには狂っていた。
しかしと言うかやはりと言うか、真っ直ぐに応援するのでなく、(応援は本気だったが)将来「後悔」をしたかったのが、おっかけをやっていた一番の理由だった。何故あの時にあんなに金を使ってしまったのか…という「後悔」をしたかったのだ。諦めが良すぎるが故に味わったことのない「後悔」の味を無性に欲していた。

しかしそれも失敗だった。金をかけてまで欲した「後悔」は、いつまで経ってもやってこない。エピソードとして話をする時は無味無臭であり、今そのアイドル達を見ても無色である。結果は金がないという事実だけだった。

ただしここで恐ろしいことに気がついてしまった。もしかしたら今まさに「後悔」をしているのではないだろうか。していたのに、していないという錯覚。
誰かを引き合いに出して、「後悔」というのは何とも苦しく打ちひしがれた状態だと思っていたが、自分にとってはこの程度なのかも知れないと思い始めた。

それは、空腹に似ている。
あまり空腹を感じていなくとも、誰かに「腹減った」と呟かれると、自分も腹が減ったような気がしてくる。しかしそれは、気がしてくる、のではなく実際には腹が減っていたのだ。
誰かにとっては声に出さずにはいられない空腹も、自分にとっては気が付かない程度の、取るに足らない状態だったのだと知る。

僕は空腹を知らない。人生で一度も自主的に「腹が減った」と思ったことがない。金がなくて食うに困っていた時も、本当の意味での空腹を感じたことがない。無視しても差し支えない程度に薄っすらと、中途半端に空腹だ。

「後悔」もそうなのかも知れない。
本当はある日からずっとし続けているが、特別気に留めるほどのものではなく、思い出した時に思い出せるくらいの薄っすらとした存在でしかないのではなかろうか。

空腹論に照らし合わせるのならば、誰かが酷く「後悔」をしている現場に遭遇しない限り、今の自分の状態を証明する事は出来ないということだ。
しかしなかなか、野良で絶賛後悔中の人間と出くわすのは難しいものであり(特定の場所に行けばあるいは…)、かと言って「後悔してますか?」など知らぬ人に聞くわけにもいかない。
友人を飯に誘うことすら出来ぬ人間には尚さらだ。

以前【茫漠】の後書きで『あの日』について書いたが、アレは後悔というよりも自戒に近い。もっとこう、手放しで後悔をしたいのだ。

諦めてしまえたらいいのだが、何故かどうしても諦められずにいる。諦めの良さだけが取り柄だと思っていたが、どうしてこれ程までに「後悔」に固執するのか分からない。
もはやコレは欲求なのではないだろうか。
どれだけ繰り返しても満たされぬ心情。
まさに食欲における空腹ではないか。

全ては空腹を知るところから始めねばならぬ。

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