ちょっと酔ってあの頃を⑤
◇◇◇
電車とバスを乗り継いでライブが行われる街へ着き、軽くお腹に入れてから、姉と私は会場へ到着した。
会場の周囲に伸びる舗道のあちこちから、ファンが続々と押し寄せている。数か所ある入り口にはすでに列ができていた。しばらく並び、簡単なチェックを受けて建物の中に入る。
開演前の雰囲気というのは、会場の大きさやミュージシャンの人気の度合いに関係なく、何度味わってもいいものだ。
始まる前の、まだ何も語ることのできないこの感じ。待ち焦がれた楽しみが、ついに目の前にある、というこの感じ。
会場前へ到着した時。ロビーでの待ち時間。そして客席に進みついに着席するまで。
段階的に期待と集中が高まってゆくのがまた楽しいのだ。
「中、もう入る?」「うーん、ちょっと早いかな…」
そんなことを話していたっけ。
先に気づいたのは姉か、私か。ふたり同時だったかもしれない。
ロビーの中央辺りに、毎日前を通っているお店のご家族が、いた。
スターの、お兄さん(多分)。お兄さんの、奥さん(多分)。
それからスターのお母さん(多分)。
あと、数人の親族らしき人たちが、ひとかたまりになっているところに出くわしたのだった。
家を出た時、お店はまだやっていたけれど、ドアの前に
「本日は午後○時にて閉店させていただきます」
というボードがかかっていたのを私たちは見逃さなかった。
その時点でもう疑いようはなく、そしてやっぱり、そうだったのだ。
お兄さん(多分)と、目が合った。
こんにちは、とふたりで頭を下げると、お兄さん(多分)が言った。
「こんにちは。いつも店の前、通ってるね」
初めて、私たちだけに向けて発してくれた言葉だった。もちろん大感激である。
「あ、ハイ。隣の○○コーポに住んでいます」
とたんに相手の声のトーンが変わった。
「なんだ、じいさんとこに引っ越してきたの、あなたたちだったの!」
「ハ、ハイッ、そうですっ!」
緊張が一気にほぐれた。じいさん、というのはもちろん私たちの大家さんを指しているのだ。
この大きなライブ会場のロビーの真ん中で、スターの親族と初めて交わした挨拶が、超超ローカルでパーソナルな「じいさん」というパワーワードを持って交わされたことに、姉妹は異常なほどに興奮してしまった。
「姉妹?」
「ハイッそうです!」
「どこ?」
「大分です!」
「そう。いつも来てくれてるの?」
「ハイッ!姉はもうずっとファンで、私も」←ここは頑張った妹であった。
「そっか。楽しんで」
「ハイッ!ありがとうございます!」
私たちはやや食い気味に答え続けた。
おおざっぱだが思い出して、こうして書いてみると、まるで自衛隊か警察か何かの組織に所属した人間のような気合いの入った受け答えである。
しかし、誰でも同じ立場に置かれたら、だいたいこんな感じになるのではなかろうか。
◇◇
実は、スターに大変申し訳ないのだが、あの日の公演の詳細について、今ではほとんどまったく記憶がない。
もちろんこれまで観たどのライブも、行くたびに感動して楽しんできたのは間違いないのだけど、この日ばかりは楽曲もMCも、すべての記憶が抜け落ちたままである。熱烈なファンにはあるまじきことかもしれない。
でも、仕方がなかったのだ。
私の中で、あの日は、ようやく正式にスターのご家族から隣人として認知してもらえた、その記念すべき日としてのみ心に刻まれてしまったのだから。
◇◇
翌朝。前日の興奮冷めやらぬまま、いつもの時間に出勤。
ドアを開け、踊り場からお店の方を見やると、初めて見る光景が広がっていた。
お店の前から私たちのアパートの手前まで、ズラリと行列ができていたのである。その数、十数人は並んでいたような気がする。
スターのファンであることは疑いようがなかった。
普段はまったくそんなことはないので、県外からのファンが泊りがけで観にきて、こうして実家に立ち寄って帰る、というのがバターンになっているのだろう。一般の家屋ならそんなことはほぼないだろうが、お店を開いているのだから、訪ねやすいのは確かだ。
当時はインターネットなんてない時代だけど、こういう情報はファンの間ではちゃんと共有されていたんだなあ、と、今思い出しても感心する。
同時に、自分と姉の呑気すぎる無知をあらためて思う。
◇◇
スターには更に申し訳ないことに、私たちはファンクラブに入会していなかった。
彼らの音楽も、声も、キャラクターも、他とは違い別格に好きだったし、レコードは全部揃え、ラジオも欠かさず聴き、歌だってほぼすべて空で歌えた。それでもなぜか入会していなかった。
お金の問題でもない。
入っていれば、当然ライブのより良い席も入手できただろう。けれど、1メートルでも近くで観たい、いろいろなグッズが特別に欲しい、などとは、あまり思わないタイプの(そういうタイプが他に数多くいるかどうかは知らないけれど)、ほんとうに申し訳ないくらいに地味~なファンだったのだ。
それなのにまるで予想もしなかった、こんな形の出会いが待っていたなんて。人生はほんとうにわからない。
◇◇
ライブの翌日にこうしてファンが行列を作る光景は、周辺の人々にとっても見慣れたものなのだろう。通りを行く人たちも、彼らにそれほど注目している様子もない。
私のアパートと同じ並びで、お店は駅に向かって行く場合、道の右側に面する。行列は白線の外を埋めてならんでいる。車が通るので、ちょっと気を使った。並んでいる人の横を、やや足早に通り過ぎる。
「・・・・・」
男性、女性、半々くらい。友達どうしで、という人はいないようだ。
皆静かに、一定の間隔を保って生真面目な様子で並んでいる。
昨日の熱狂を経験した同志として、密かに親しみを覚えつつお店の前までくると、レジスターを操作しているお兄さんと目が合った。(「多分」はもう、お役御免にします)
会釈をするとすぐにドアを開けて顔を出し、
「おはよう、昨日はお疲れさん。行ってらっしゃい!」
そう言ってくれた。
歌ったらやっぱりきっとうまいんだろうなあ、と思える、低音だけど明朗に響く、張りのあるボイスだった。
ライブ明けの朝、スターのお兄さんからこうして声をかけられ見送られる。
なんという幸せな出勤だ。私もできるかぎりの笑顔をつくった。
「おはようございます、行ってきます!」
歩みのスピードは緩めない。だって通勤途中なんだから。
そして、「いらっしゃい」
自分とは段違いに熱烈なファンたちを迎え入れるお兄さんの声を背中で聞きつつ、駅への道を進む。足取りは跳ねるようだった。
一応まだつづく。もう完璧なモノローグ。
いい加減終わらせねば…。
前回まではこちらから。
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