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仕事辞めてロシア留学したら戦争始まって計画パーになった話〜第一次浪人編〜

高校入試の失敗、大学入試の失敗と、まともに入試で第一志望に通ったためしのないのが私だ。高校卒業した頃の私は「この世で自分の思い通りに行くことなどない」という教訓を、身をもって思い知った(つもり)の時期でもあった。

受験の神様という特殊な偶像までもを創造し、崇拝し、そしてそのような願いも空しく、数多もの人が通ってきたのが「浪人生」という道だ。
因果なことに、その道を通ることになった私は、理系から文系への本格的な転向の為に予備校と塾に通い始めたのであった。

この時通っていた塾で私に英語を教えてくれていたN先生は、私の人生において決して欠かすことが出来ない人物のひとりだ。人生の師、と言っても差し支えはないだろう。

N先生は早稲田大学の英文学科を卒業し、高野山の某寺院にて密教を修め、今では英語の講師をしていると自称する、かなり怪しい経歴のバツイチのおじさんだった。年の頃は50歳半ばを過ぎていたくらいだったろうか。背はひょろりと高く痩せており、さながらトカゲのようなギラリとした目つきと顔立ちをしている人だった。

このN先生は英語の講師でありながらも英語の授業はまともに行わず、授業時間に話すことはと言えば密教の瞑想方法であったり、ゴルフの上手な打ち方だったりと、相当な変わり者の先生であった。しかし宿題は山のように出してくるし、してこなければ宿題をしてこなかった理由を「何故?何故?」と繰り返し問い詰めて聞いてくるので、授業を重ねるたびに一人また一人と受講する生徒は減っていき、とうとう最後に残ったのは私だけとなったのだった。

授業は全体の時間の1/4も行えばいい方で、大体の時間は仏教の話ばかりであったが、私にとってこの話は興味深かったし、短いながらも英語の授業の質は高かったので、私は最後まで残ろうと思ったのだった。

その理由は、今となれば記憶は定かではないが、「勉強なんか自力でいくらでも出来る。ただ自力でする為には色んな思考や認識、環境の邪魔が入る。これを取り除くのが成績向上への近道なのだ」というような事を言ってくれたと覚えている。

たった一人の生徒となった私に、N先生は「色即是空空即是色」と言った仏教哲学や、月輪観、阿字観、数息観といった瞑想方法を教えてくれたものだった。授業時間が丸々が禅問答だった日もあった。
私自身、寺内で修行を直接したわけではないので正確なことは書けないのだが、要点として以下のことについて、手を変え品を変えてN先生は教えてくれたのだった。


・物事に囚われるな

・物事に囚われるな、という考えにも囚われるな

・「ナゼナニ?」を常に問うてみろ


本当に強烈な授業であった。
ありとあらゆる物事に何故?何の為に?と問いかけきて、初めて自分の思考や自分の行動を自問自答した授業であった。

中でも特に印象に残り、昨日のことのように思い出せる授業が一つある。上田秋成の「雨月物語」の一節、「青頭巾」を教えてくれた授業だ。(「雨月物語」は江戸時代後期に上田秋成によって綴られた怪異小説なのだが、非常に興味深い読み物であるので、ご存知のない方は是非読んでみて欲しいと思う

N先生は青頭巾を誦じて語り始め、そして一つの詩を黒板に書いて教えてくれた。



江月照松風吹 永夜清宵何所為



訳者によって差異は現れるが、概ね以下のような意味である。


「月が川の水面を照らし、風が松を揺らしている。長く永遠に続くかのような、この清らかで静かな夜は、一体何によって、何の為にあるのだろうか。」


曰く「この詩の意味を見出した時、「悟り」を開いたと思える瞬間が来る。しかしその「悟り」と思える思考こそまさしく「色」即ち「囚われた認識」なので、その思考を殺し(仏に会えば仏を殺せ)、また改めてもう一度詩を読み返してみろ」とN先生は教えてくれたのだった。


禅問答も甚だしく、英語の塾講師が教えるようなものではとてもないし、金を払ってまでして通う塾で教えることでは決してないだろう。


だからこそ生徒からは嫌われていた先生であったし、だからこそ私が大好きな先生であった。
今でもふと思い出し、猛烈に会いたくなる先生だ。


このようにN先生が問いかけてくれた禅問答は、腰椎分離症や浪人を経て、世の中を「わかったつもりでいた」私の青い人生観を悉く壊してくれた。
私の積み上げた人生観を石に例えるなら、賽の河原の鬼のような先生だった。

N先生の授業ではこんな事ばかり教わっていた私だったが、それ以外の先生は真面目に授業をしてくれていたし、N先生も分からない事を聞けば丁寧に教えてくれる先生ではあったので、文系科目の成績は上がり、なんとか文学部進学に耐えられる程度の学力は身に付いていったのであった。

そうしてあっという間に2度目のセンター試験となり、1度目と比べて、精神的な余裕も、学力的な自信も全く異なる中で私は試験を受けたのであった。
マークのズレや氏名の書き損じはないかと繰り返し確認し、去年と同じ轍を踏むものかとセンター試験を受験した私は、なんとか文系学生として恥ずかしくない程度の得点を得ることが出来た。

「次こそは!今度こそは!」と意気込んで隣県の第一志望の国立大学文学部に挑戦したのだが、しかしここでも、またしても、私の受験番号は合格者一覧に載ることはなかったのであった。


ほとほと「第一志望合格」という言葉と縁のない話ではあるのだが、「努力と頭が足りないだけ」と言われればまぁそれまでである。


結局すべり止めとして受けた関西の某私立大学の文学部に通う事になったのであった。この時に「私立高校、予備校、私立大学とお前は本当に金のかかる子供だな」と両親にはさんざん笑われたものだったが、27歳になった今でも実家暮らしで親の脛をかじっている訳なので、もはや親の脛はすり減って無くなっているかもしれない。


さて、望み通りの進学にならなかったとは言え、無事に浪人生卒業となった私だが、通う事となった大学は関西や西日本では名の知れた私立大学であったということもあり、当時の私としては十分に満足のいく進学であった。

この時の私は、いずれ訪れる未来、つまり、初めての就職活動、二度目の浪人生活、高校受験失敗から数えて三度目の躓き、腰椎分離症から数えて四度目の苦労なぞを知る由もなく、慣れない土地での一人暮らしに向けて引っ越しの準備を始めるのであった。


〜第一次浪人編〜 完


つづく・・・。


あとがき

ここまで読んでくださって本当にありがとうございます。

皆さんに私の恥ずかしい半生はどのように映っているのでしょうか。
暗いニュースばかりの世の中ではありますが、少しでも皆さんを笑顔にできたのなら幸いです。

さて、2浪3浪と浪人生活を送られる方はおられるでしょうが、第一次浪人、第二次浪人と言った様な浪人の仕方をする人は、まぁそうそうはいないのではないでしょうか。
そして親父と同じ予備校に通うことになるというのも、中々因果な話じゃあないでしょうか。

N先生は本当に奇天烈な先生でした。禅問答をメインに教える英語の塾講師と巡り合えるのも、持って生まれた運なのかもしれません。
しかしながら、たまーに真面目にしてくれる授業は本当にピカイチだったんです。おかげでセンター試験の英語は190点超えてたんですよ。今は多分さっぱりできないでしょうけれども。

そしてあの時、N先生が教えてくれた仏教哲学は、果たしてどこまで理解しているのかは別として、僕の中で一つの物の捉え方、考え方の基礎を作ってくれたのでした。

皆さんも、何かに躓いたり困ったりしたら、案外仏教にその答えがあるかもしれせん。平家物語の冒頭には、示唆に富むものがあるので、今一度読み返してみてもいいかもしれませんね。

さて、次回からは大学生4年間の悪行と、就職失敗談をかけたらなと思います。ようやくモスクワ留学を決めるまでの折り返しに来たのかなと思います。もう少し話は続きますが、どうぞ最後までお付き合いくださいませ。

皆様からのコメントをお待ちしております。
誤字脱字等ありましたら、遠慮なくご指摘くださいませ。

それではまた続きのお話にて・・・。


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