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エヴァに乗りたいんだ

エヴァンゲリオンとわたし


エヴァンゲリオンの話をしよう。

エヴァンゲリオンは、「新世紀エヴァンゲリオン」というアニメ作品に出てくる、使徒という見た目も中身もよくわからない謎の生命体の殲滅を目的として製造された汎用人型決戦兵器である。この人型兵器には選ばれた「母親のいない14歳の子ども」しか乗ることができない。
エヴァンゲリオンには心がある(諸説ある)。人間が愛情を抱くときに使うとされる神経を介した神経接続をパイロットと行うことでコントロールされ、なんなら戦いの際には痛みも共有するし、最悪の場合は死に至ることもある。

(細かいところ間違っていても許してね)

エヴァンゲリオンというアニメの存在を知ったのは中学生くらいの時で、当時のわたしにはミサトさんとシンジくんの微妙なかんじとか、アスカとシンジくんの微妙な感じとか、レイとシンジくんの微妙な感じとか、過酷な戦闘シーンで流れる歓喜の歌とか、なんかちょっと受け入れ難い部分があって途中で観るのをやめてしまった。

そんな私が最近になってパチ屋でエヴァンゲリオンと再会したわけであるが、1000回転を越えてもまだ回り続ける揃わない数字をボンヤリ眺めながら「あぁ、いいなぁ、エヴァって」と心底思った。まぁ歌や機体(あとカヲルくん)に思い入れがあることを差し引いても、当時わりと嫌悪感を持っていた作品に憧憬を抱いている自分に自分でびっくりした。

かつての嫌悪感を紐解いて行くと、子どもしか乗れないという、大人の責任を全ぶっぱしたような設定であることとか、ゲンドウくんが人間とは思えない態度だしミサトさんもミサトさんでお母さんの立ち位置にはならないみたいだし、どうして適切な養育が行われないんだとか、なんか「正しくない」みたいな正義感に取りつかれていたような気がする。

あれから四十年。(きみまろ)

いやそれはさすがにうそ。

まぁ少なめに見積もって10年以上は経ったわけだが、わたしは正しくないことにこそ人間の何たるかが凝縮されていると考えるような大人になった。そんなわたしは、いま、心底エヴァに乗りたいと思っている。

薄いひと

さて、話は変わるが、人のありようを表す言葉のひとつに「バウンダリーが薄い」という表現がある。

バウンダリーが薄い人は、自分と他人の境界がいつも曖昧だ。

他人の期待はいち早く自分の目標にすり替わり、他人の不機嫌は自分を必要以上に脅かす。他人が怒られている時は、自分も一緒に責められているような感覚に覆われてしまうから、あらゆる人間関係の中で行き交う悪口や怒号、拒絶は、自分を対象にしているものでなくても全て自分に自動追尾機能搭載型ミサイルのように飛んでくる。

例えば仕事。自分が受け持っている顧客のことを悪く言われたり、もうあの人はうちで受けられませんねと言われたりしたもんなら、そこでその顧客を抱えている自分も一緒に全否定されたような気持ちに襲われてしまってもはやメンタルは再起不能である。その顧客の振る舞いには自分も困っていたとしても、である。

そうなるともはや世界は敵だ。

このnoteを書くにあたってネットでバウンダリーという言葉を調べたら、幼少期の親との関わりが結構大きく影響していると書いてあった。

まぁネットの情報がほんとかどうかは知らないが、私個人の話で言えば、確かに私は大学に入る前くらいまでは母親に逆らうことも一切なく、また私の決定は母親の意見が全てであった。今になって考えると、頭おかしいだろと思うようなこともたくさんあったが、殴られるし責められるし泣かれるし方々に電話かけまくるし死のうとするから最終的には従うしかなかった。

私はそんな母親に困っていたし、嫌っていた。

が、象徴的なエピソードがある。20歳も過ぎて毎日酒を浴びるように飲んでいたある日、酔っぱらって帰ってきた私は突然とんでもない不安に襲われる。

「お母さんが死んじゃったらどうしよう」

いい歳した大人が床にひっくり返った虫のように転がり大声で泣き叫んでいたのだ。周囲の証言もあったけど、自分でもうっすら記憶に残っている。

こういう風に大爆発する前にも、何度か「母親が死んだらひとりぼっちになる」という不安感に襲われることはあったし、それは子供が生まれてからもしばらく残存していたように思う。

バウンダリーが薄く母親の価値観や期待を全て取り込むことで成り立っていた当時の私は、その軸である母親を亡くしたら自分も生きていけないと無意識にとても強く思い込んでいたのでしょう。おそろしいね。

いつからか私は母親を必要としなくなった。どうやって抜け出せたのかはいまだにはっきり分からないが、なんとなく自分の新しい家族の人数が多くて、色んな価値観が常にごちゃごちゃしていることは良い影響を与えているような気がする。

ソウルメイトとしてのエヴァ

とはいえ、いまだにバウンダリーは薄めのわたくし。

バウンダリーが薄い人は、相手からの影響をモロに受けやすいだけではなく、逆に自分が親しい人をまるで自分と同じもののように考えてしまうという側面もある。特に子どもとか、パートナーとかに対しては、たぶん、普通の人が思う以上に自分を理解して欲しいとか相手を理解したいと思いがちなんじゃないかと思う。逆に言うと、こういう人間は理解さえできればたいていのことはOKなので、「なるほどね」と頷きながら既に他人の荷物を抱えているみたいなことは起こりがちである。

こういう自分の特性に気づいてからは「自分の課題は自分の課題、他人の課題は他人の課題」の線引きをするように、ひたすらに努力してきた。他人の課題を必要以上に背負わないこと、自分の課題や理想を相手に押し付けないこと。

バウンダリー曖昧勢にとってそれはめちゃくちゃ難しく、しかしがんばってそれを保った先に何があるかというとそれは

孤独だ。

誰のことも救えず、誰にも理解されない。

行けば地獄、戻っても地獄。

いやそれ普通のことなんですけどね。人間ってそうなんですけどね。

そんな私にとって、ただ自分だけを求めてくれて(?)、自分だけが操縦することができるエヴァンゲリオンという生き物は、なんというか唯一無二の魂を共有する相手みたいな高尚なものに見えてしまうのだ。

自分とだけ気持ちを通わせ、感覚を、あまつさえ痛みまで共有してくれる何かがこの世にいるというのは、私にとって夢のようなことなのだ。それを人間に求めるのは不可能で間違っていることだと分かっているからこそ。そんなものがあったら、それと一緒に闘って死ねるなら本望だと思っていたかもしれない。

そんなエヴァンゲリオン。

本日、全国のパチンコホールで新台入荷です。

はやくエヴァンゲリオン打ちに行きたいです。

おしまい。

どむ

⭐️普段は楽しくYouTubeでゲーム配信やってます。zakuzakuげーむで検索してね⭐️

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