見出し画像

20040423 普遍文法

 普遍文法$${^{*1}}$$という考え方があるらしい。ある読者の方から「言語の脳科学」という本が大変面白いというので読んでみたらそんなことが書いてあった。人類共通の言葉の基みたいな物があって、それは赤ん坊の頃から備わっているというのである。ノーム・チョムスキー$${^{*2}}$$という人が言い出した。

 母国語のしっかりとした文法教育を全く受けなくても幼児は正しい言葉が喋れるようになる、これを大きな謎と考える。細かい文法知識が与えられない状態でも正しい文を構成していく能力が発達していく。このことを説明するのは簡単ではない。例えば、助詞の「は」と「が」とを区別して文を構成できるのは、親から「『が』は動作や状態の主体を表すが、『は』は述べることの題目を表したり、とりたてて言う場合に使う。従って『象さんはお鼻が長いね』の主語は『お鼻』となる」などと説明されるから、ではないのは明らかである。それなのに幼児は言葉を巧みに操るようになっていく。

 この不思議な言語習得の機構を簡単に説明する考え方が、普遍文法だ。赤ん坊の頭の中に最初から言語を構成する手順が備わっていれば、文法など教わらなくても単語さえ覚えれば正しい文をいくらでも作ることが出来る。全然不思議ではないことになる。

 これはにわかに信じがたい。言語は最初から脳に仕組まれた機能なのだろうか。最初から脳に仕組まれているのであれば、言語の根本は精神活動ではなく生物学的な仕組みなので、言語の探究は自然科学の範疇になると言うのだ。

 どう考えても言語は自分の意志を相手に伝える単なる道具としか思えない。道具だとすればその成り立ちを探るのは自然科学ではない。文化だから人文科学になる。

 そもそも頭の中で物を考える時、言語は介在しない。断片的に言語が入る場合があるかも知れないが、いちいち頭の中で言葉が流れていることはない。その証拠に何かのひらめきは一瞬にして起こるが、その内容を言葉で表現しようするとひらめきに比べてかなり長い時間がかかる。ニュートンやアインシュタインなどの天才は力学の法則や相対性理論の根本が一瞬にしてひらめいたに違いない。しかしそれを他人に解ってもらうためには言語という道具を用いて表現するしかない。頭の中に数式そのものや言葉が浮かんだわけではないだろう。

 言語は思考に使うものではないことは明らかであって、人類は共同生活を営む生物だから、自分の意志を相手に伝えるための生物学的な機能と考えればいいのだろうか。ミツバチの8の字ダンス$${^{*3}}$$と同じ類で、これが発達すると普遍文法になるのか。それが言語に至る過程を探るのが言語科学と言うことなのだろうか。

 こう考えるとむしろ「ひらめき」の機構の方が神秘的である。チョムスキーが普遍文法と言う考え方を思い付いたのは、彼自身の脳が単にコンピュータと同じ情報処理をしているのではなく、独特な処理をしたからだろう。この処理の仕方は人類特有の生得的な仕組みなのだろうか。そうだとすると人類はなるべくして文明を発達させることができたことになる。

*1 文法処理の脳機構
*2 Noam Chomsky
*3 ビートピア ストーリー8/ミツバチダンス

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?