外人は我々と同じ「日本人」になれるのか?アンちゃんを例に考える。

Xでアンちゃんが話題だ。どうやら元アメリカ人で最近日本に帰化したらしい。

演歌など日本文化大好きで「私は日本人!」「日本文化大好き!」などポストしており右派からは叩かれ、リベラルからは多様性の象徴のように称賛されている。

下記ポストの井川氏のように元外国籍で帰化した人が「日本人」を語ることに違和感を感じている人が相当いるのだろう。というか感じるのが普通だ。見た目も生まれ育った環境も違う人が国籍を変えただけで日本人になれるのか?我々はなぜ外国人が「日本人」を語ることに違和感を覚えるのか。アンちゃん帰化論争について考えることで、この違和感の正体を探っていきたい。

『外人は我々と同じ「日本人」になれるのか?』という挑戦的なタイトルを付けたが、外人という言葉は、差別的だと捉える向きもあるようだが、基本的には外国籍の人=外国人を指す言葉だ。英語のforeigner(外国人)にforeign「見知らぬ」という意味が含まれているように外人にも見知らぬ土地の人々という意味がある。以後、外人=文化・社会的に他所者。外国人=外国籍の人と定義してして話を進めていく。

筆者の答えは、外人は帰化日本人にはなれるが、在来日本人になることはできない。つまり、外人は日本人にはなれるが「我々と同じ」日本人にはなれない。

「我々と同じ」とは少なくとも数世代にわたり親族が日本人で生まれも育ちも日本である人だ。

ここで日本人・外国人にまつわる言葉を定義しておく。

本稿で導く日本人にまつわる定義
日本人=日本国籍を有するもの。政治的定義。
在来日本人=帰化日本人以外の日本人。
帰化日本人=外国で生まれ育ったが、日本国国籍を取得した人々。
大和民族=在来日本人の主要民族。所謂純ジャパ。
アイヌ人=在来日本人の少数民族。大和化されなかった日本人。
外国人=日本国籍を持たない人々。含む在日本外国籍者
外人=文化・社会的な他所者

国民と国家の違い。


フランスナショナリズムの象徴「民衆を導く自由の女神」

我々が生きている現代社会は国民国家と呼ばれる政治体制が主流だ。国民国家は英語でNation-Stateと呼ばれ、NationもStateもどちらも国家を意味するが、ニュアンスが違う。Nationは国に住んでいる人々、つまり国民や民族に重点を置いた言葉で、Stateは政治的権力、つまり国際社会において主権を持つことに重点を置いている。

Nation=民族としての国家。
State=政治的権力としての国家。


近世以前はフランス人がスペイン王になったり、中国の皇帝が満洲族だったり、国家の統治者と国民との有機的関連性は薄かった

近代に入り西洋で国民=国家という思想が生まれる。この思想の原型は1648年のウェストファリア体制によって確立された。30年続いたプロテスタントとカトリックの戦勝が終了し、国家は政治的主権を獲得すると共に、国家の宗教と国民の宗教が一致する政治体制が誕生した。第1次世界大戦はバルカンの民族主義者がオーストリア皇帝を殺害して発生し、第2次世界大戦は統一国家を持たない民族ゲルマン人の国家統一運動から始まった。まさに近代史は国民と国家の境界線を一致させる運動(ナショナリズム)の歴史のなだ。

しかしアメリカのようにさまざま国から移住してきた人々が作った国もある。民族と政治的国家の境界線が一致しない国は政治的ネイションと呼ばれている。それに対し日本のように特定の民族が国家の主要民族を構成している場合は文化的ネイションと呼ばれる。

一方、日本の大日本帝国は多民族構想であり、天皇の権力が及ぶ範囲の人々は日本人とされていた。しかし戦後に日本が他民族の領土を失うことで日本は日本人が構成する国家、つまり単一民族国家と呼ばれる考えが普及した。多民族国家から西洋風の国民国家、単一民族の日本人によって構成されている国家、日本が誕生した。

アイヌ人のような少数民族であるものの現在の日本の主要人口が日本人であることは間違いない。
※ちなみに少数民族の存在を理由に日本が単一民族国家ではないとする考えもあるが、単一民族国家の定義は「特定の民族のみで人口の95%以上」であり、日本民族が98.5%で単一民族国家である

しかしながら、グローバル化する社会の中でコンビニに行けば外国人の店員が接客したり、都市部では外国人を見るのは何も珍しくなくなった。アンちゃんみたいな、日本在住外国人でもない元外国籍の日本人も多くなった。

多様化する日本住人を前にして、日本人とは何か?という根本的な疑問が発生しているのだろう。それで、右翼は「外国から来たやつは日本人じゃねぇ!」と叫び、左翼は「日本国籍を持つ人はみんな日本人!多様性を受け入れて」と主張するのだ。

この右左の主張の捩れには、先に説明した国民と国家を一致させる国民国家思想が源流にある。日本国の民族は日本人であり、日本人は日本国の国民であるという考えだ。この捩れを解消するには国民と国家との結びつきを解消する必要がある。

つまり、日本国=日本人の国ではないと定義しなければならない。

こうなると、じゃあ日本にもともと住んでいる人たちはどうなるんだ!日本が日本では無くなるではないか!日本が外人に乗っ取られる!と不安になる人がいる。これはネトウヨが騒いでいるだけと看過する人もいるが、当然自分達の集団的アイデンティティが揺らぐことに対する防衛反応はあって然るべきだ。

日本国の主要国民(Nation)とは何か?

しかし、心配することはない。日本にいくら外人が増えても、在来日本人と帰化した日本人を区別する言葉が日本にはある。日本にいる民族を形容する言葉、それは大和(ヤマト)だ。

日本人を構成する主要民族は大和(ヤマト)民族だ。大和魂、大和撫子など日本の民族を象徴する言葉はこの「大和」である。

日本はその文化の根幹をなす民族物語、つまり日本神話においても神武天皇が大和(ヤマト)の地(現奈良県)に建国した国である。

日本史最大のヒーローの名は倭建命(ヤマトタケルノミコト)だ。日本武命とも書くが読みは同じくヤマトタケルである。彼は当時統一されていなかったヤマト王権の権力が及んでいなかった辺境の 地に赴き、熊襲などの異民族を討伐していき、日本を大和化していった。日本の礎を築いた伝説上の人物だ。


ヤマトタケル

日本の歴史は天皇を中心としてその統治下にある人々を大和化してきた歴史なのだ。これは武士が台頭して権力を握っても、敗戦しアメリカが統治しても変わらず大和民族の王、天皇は天皇であり続けた。つまり、日本は大和民族の国であり、大和民族の祖である天皇を否定しては日本が成り立たないということだ。

何もこれは古い万世一系思想ではない。天皇単体の血筋が続いていることはあまり重要ではない、重要なのは、日本は大和民族が建国した国であるということだ。

大和民族の国が日本と呼ばれるようになった時期には諸説あるが、1つは当時、大帝国であった中国に対して自らを日が上る方向にある国として日本(ヒノモト)と名乗ったことである。その当時も日本は他民族エミシもいたし、クマソもいたのだ。民族ではなく、中国に対する政治的権力として日本を名乗ったのだ。

つまり、古代から日本はState=政治的国家としては日本であり、その主要国民(Nation)は大和民族であったということだ。

近代に入り西洋の国民国家思想が流入し、大日本帝国が崩壊したことで日本に住んでいる人=日本人の構図が出来上がってしまったが、

本来の日本の定義は
政治的国家(State)=日本
民族的国家(Nation)=大和

であったのだ。

日本の歴史から見ると日本は以下のような国家変遷を辿ったことになる。

古代ヤマト王権=政治的ネイション 
※ヤマト王権化の権力が及ぶ範囲は日本
    ↓
中世日本=文化的ネイション
※日本の政治が安定化することで日本の国風文化が栄える。エミシの地もほぼ平定し終える。
    ↓
大日本帝国=政治的ネイション
※欧米の植民地帝国勢力に対抗してできたアジア多民族国家。
    ↓
戦後日本=文化的ネイション
※日本帝国が他民族領土を失い、大和民族が住む土地だけが日本の領土に戻った時期。アイヌ人もほぼ大和化してしまった。
    ↓
グローバル化した日本=政治的ネイション
※在来日本人(大和民族、アイヌ人)に加え外国からの帰化日本人が増加した日本。

結論

外人は「日本人」にはなれる。日本国籍を取得したときに日本人になり、外国人では無くなる。

しかしながら、外人が日本国籍を取得しても在来日本人にはなれないし、「大和民族」にもアイヌ人にもなることはできない。

私はドイツに住んでいる。あと1年在住するとドイツ国籍を取得することができる。ドイツ国籍を取得したとしても、ゲルマン人になることはできない。

日本人がアメリカに渡りアメリカ国籍を取得しても、アメリカ人にはなれるが、白人系アメリカ人にはなれないし、アフリカ系アメリカ人にもなれない。

アンちゃんも同じことだ。アメリカ人が日本国籍を取得しても、日本人にはなることができるが、大和民族になることはできない。彼女は政治的には日本人であるが、民族的には大和民族ではない。

戦後保守派が「日本人から日本の文化がなくなりつつあ」「日本の歴史を学ばなくなったと」と憂いているのも納得だ。戦後日本人は民族性を失ってしまったのだ。再度日本人の民族性を再定義しなければならない。日本は主に大和民族が形成する国家である

先の井川氏のポストは「(アンちゃんは日本の)国籍は取れても、精神は大和民族ではない」と批判すべきであったのだ。

余談

日本の主要民族を大和民族と再定義することは、グローバル化し多様化する日本社会において、日本の集団的アイデンティティを再確立する上で最重要かだであるだろう。アイヌ人が日本人か?という論争も意味が無くなる。アイヌ人は日本人だが大和民族ではないのだ。

この民族と国家を切り離すことは、多様性を受け入れる日本社会の基礎となるだろうが、先述の通り大日本帝国時の日本人の定義に逆戻りすることになる。

大日本帝国は多民族国家構想であった。天皇の御言が届く範囲が日本。インドネシアでも、台湾でも、韓国でも日本。なぜなら日本は民族の名前ではなく、政治的権力が及ぶ政治的領域だからだ。

これは現在アメリカの考えと同じだ。白人でも、黒人でも、ネイティブアメリカンでもアメリカ人(合衆国人)。連邦政府の権力が及ぶ範囲がアメリカであるとする考えだ。

勝てば官軍負ければ賊軍」とはまさにこのこと。同じような考え持っていても勝った方の思想は、多様性を寛容する道徳的な考えだと人々に受容され、負けた方は悪、人類史における汚点と認識されているのだ。

しかし、グローバル化する社会において日本も外国人を受け入れていきながら、元来日本にある文化も尊重してくためには、もう一度民族としての国家と政治的権力としての国家を分離して、日本主要民族再定義する必要がある。そしてそれは大和(ヤマト)である。

大日本帝国時の日本人の定義に逆戻りするが、それが「先進的な」多様性を受け入れる社会思想と同じであるのはなんとも奇妙だ。温故知新というやつか。「ただ新しいものに本質はない。古くて新しいものにこそ本質がある」という言葉通りだ。多様化する社会を受け入れるために、思想が時代的に後退することになるが、それは決して日本が帝国主義に戻ることではなく、現在の日本の領土内において民主主義ととに両立していけばいいのだ。


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