見出し画像

踊る女

33歳と言っていたが、彼女の目の前に立っているのはどう見てもハタチを過ぎた若者だった。あまりにもひどい嘘に彼女は思わず失笑してしまったが、彼は本気だった。「好きなタイプなんです」真っすぐに見つめてくる瞳は真実を語っていた。

彼女は採集の目的でSNSを始めた。裏アカウントでつながる世界では有象無象の性癖が存在し、本気の変態とそれを偽った凡人が混在していた。その膨大な情報の海を冒険し、未知の世界の住人たちとの出会いを楽しんだ。彼もそんな中の一人だった。

プロフィールに「ぽっちゃりしたアラサーです年上希望」そう彼女が書いていたのに、声をかけてきた彼は21歳の大学生だった。SNSでのやり取りでは年下であることをおくびにも出さず、豊富な知識で話をリードするので彼女が年齢について不審に思う余地もなかった。

垢ぬけない顔立ちとダサ目の服装がますます彼を素朴な青年に見せた。そんな風体であるにもかかわらず、彼が語る女性遍歴に驚かされた。年下、同級生、年上、彼女よりも年上の人妻と付き合ったこともあるといった。そんな経験をしてきた彼が、彼女のことを理想の女性だと言ってきた。

2度目に会ったとき、親しくなりたいからと本名を聞かされた。そして「僕にはお母さんがいないんです」とも。どういう生い立ちでもいい、必要とされているなら。彼女が抱きしめると彼は「安心しました」と言った。それはまるで親が我が子に抱くような、彼女の心は慈愛で満たされていた。

同じ週、少しでいいから会いたいと彼に言われ、彼女は仕事を切り上げ保育園に延長保育をお願いして職場を出た。サークル活動が終わったところだという彼の体からは男の臭気が漂った。早く帰らなければならないはずなのに、彼を求める彼女がいた。

初めて身体を重ねた日から1ヶ月で7回近く逢瀬を重ねた。どこに行くにも彼がエスコートしてくれたが、支払いは彼女が全て行った。それが年上の社会人として当然だと感じていた。会えない時間も常に彼のことを考えた。思いが溢れてしまい彼女が得意なリサーチで彼を調べた。

名前も、大学も、サークルも違っていた。一度は問い詰めようと思ったが彼女はそれをしなかった。彼は無邪気な子供なのだ。子供でも男だ。男のプライドを傷つけてはいけない。何もかも嘘かもしれないが、彼に会えさえすればいい。彼の気が済むまで演じさせておくことにした。

何度も何度も愛の言葉をつむがれ、相思相愛以上になったと思っていた。けれども放物線を描くように会う機会が減った。連絡がつかなくなると彼女は矢継ぎ早にメッセージを送った。すると「もう好きじゃない」という返信が彼から来た。出会って6ヶ月後に別れを告げられた。

彼女は彼に心奪われていた。好きじゃなくてもいい、会うだけでもいい、そうお願いした。彼はそれならかまわないとそっけなく言い放ち、でも他の人を探した方がいいよとも続けた。それに従うように彼女は他の男性とも会い続けてみたが、彼のことが頭から離れられなかった。

彼が喜ぶことをしてあげたいと思う一心で高級ホテルを取ったり、彼の望む高価なオーディオ製品を買ったり、有名なミュージカルに行ったりした。我が子が望むことは全てしてあげたいという親の思いだった。3人でしたいという希望にも、彼女の裏アカウント友達の女性に声をかけて叶えてあげた。

夢の国のアトラクションに並ぶと、ずっとスマホのアプリで漫画を読む彼。園内に入ってから彼は一言も口を開いてなかった。乗り終えると何事もなかったようにスマホを見る。その後のホテルでもクライナーをひとなめして寝てしまった。その一日で、彼女は何かが吹っ切れた。

まだ暑い日が続く新宿で彼女と待ち合わせをした。律儀にカフェの前で待つ彼女。見た感じどこにでもいる主婦という形容詞が思い浮かんだが、話すと一変、あまりにも意外な体験談にあっと言う間に時が流れてしまった。能ある鷹は爪を隠すものだ。

論理的に物事を考えるような気もするし、突発的なことに対してもその変化を楽しんでいる気もする。会話のキャッチボールの速さと同等、彼女は悲しんでなんかいられない。人生を楽しむ時間はまだこれからたくさんあるから。まだ少し彼を忘れずにいたとしても。

言葉は記憶の集合体。話す言葉に真実も嘘もない。彼がいたら嘘でも本当になる。彼がいなければ本当も嘘もなくなって記憶が残るだけ。彼女が丁寧に記した彼と会ったその日付の羅列。そこには温かな思い出だけが残る。

いいなと思ったら応援しよう!