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「西成のチェ・ゲバラ」17 爺さんが同じことを何度も言ってくる

第十七話 翳りゆく記憶

「カルテを」
ゲバラの声が、静けさを破る。
まちは無言で差し出す。
山本進。85歳。独居。
これまでの来院歴はない。

「血圧の薬が切れてきて」
山本が呟く。
「それと、最近、物忘れが...」

ゲバラは静かに聴診器を当て直す。
その仕草に、いつもより丁寧さがある。
認知症の初期。
だが、その混乱した記憶の中にある、確かな何か。

「わしの記憶は...」
山本の声が震える。
「あの図書館で、確かにあんたと...」

「1962年、ハバナ大学で」
ゲバラが静かに告げる。
「ゲバラ司令官が、日本からの留学生たちと会っていました」

まちは、思わず息を呑む。

「薬を処方しましょう」
ゲバラは冷静に処方箋を書き始める。
「そして、定期的な検査を」

「あの時の約束やな」
山本が、懐かしそうに微笑む。
「人を救い続けるって」

ゲバラの万年筆が、一瞬止まる。
しかし、その声は変わらない。
「はい。その約束は、誰もが守るべきものです」

まちは、落ち着かない気持ちで二人を見つめていた。
これは偶然なのか。
それとも...

「先生、あの...」
診察後、まちが小声で問いかける。

「彼の記憶は、間違っていない」
ゲバラは窓の外を見つめたまま答える。
「だから、訂正する必要もない」

「でも...」

「記憶とは不思議なものだ」
ゲバラの声は静かだった。
「時に過去は、違う形で生き続ける」

まちは黙ってうなずく。
しかし、その胸の内には、
新たな不安が芽生えていた。



その日の夕方、再び山本がやってきた。
今度は記憶を探るように、診療所の前でたたずんでいた。

「山本さん?」
まちが声をかける。
「お薬の件でしたら、もう...」

「あ、いや」
老人は懐から一枚の紙を取り出す。
「これ、置いていこうと思って」

それは、山本の住所と電話番号だった。
下手な文字で、「緊急連絡先」と書かれている。

「独りやからな」
山本は照れたように笑う。
「この辺りじゃ、ここが一番、安心できる」

診察室のドアが開く。
ゲバラが、静かに姿を見せる。

「いつでも来てください」
その声は、いつもと変わらない。
「ここは、誰にでも開かれた診療所です」

山本は黙って頷く。
その目は、もう60年前を見てはいなかった。
しかし、その代わりに、
何か確かなものを見つけたような、
穏やかな光を湛えていた。

外では、夕暮れが街を包み始めていた。
三角公園に、人々の影が長く伸びている。

「まちさん」
立ち去り際、山本が振り返る。
「わしな、最近物忘れが多うて」
「でも、今日のことは、ちゃんと覚えとく」

その言葉に、まちは返事の代わりに、そっと手を振った。

診療所の窓辺で、ゲバラは黙ってシガリロを灯す。
過去は、時に思いがけない形で、現在に影を落とす。

だが、その影は必ずしも、暗いものばかりではない。

「先生」
カルテを片付けながら、まちが声をかける。
「山本さんのこと、どうしましょう」

「普通の患者として」
ゲバラは、窓から三角公園に消えていく老人の背を見つめている。
「ただし、認知症の経過は注意深く」

「でも、あの話は...」

「事実だ」
ゲバラが静かに告げる。
「だが、それは彼の大切な記憶。私の正体とは関係ない」

その時、診察室のドアが再び開く。
山本が、少し困ったような顔で立っていた。

「すみませんな」
老人が照れくさそうに笑う。
「家に帰る道が...」

「案内しましょう」
ゲバラが立ち上がる。
「ちょうど、往診の時間です」

静かな夕暮れの街を、二人は歩き始めた。
肩を寄せ合うように、同じ歩幅で。

「先生」
山本が、ポケットの手帳を握りしめる。
「わしな、もうすぐ全部忘れてしまうんやろな」
声が震えている。

「でもな」
彼は空を見上げる。
「1962年、ハバナの朝と、
2024年、この診療所の夕焼けだけは、
絶対に忘れへん」

その目に、涙が光る。

「あの時も、今日も、人を信じる気持ちを、教えてもろた」

ゲバラは黙って歩き続ける。
夕陽が、二人の影を長く伸ばしていく。

「街が、少しずつ変わっていくんです」
ゲバラが、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「記憶も、人も」

「ああ」
山本が頷く。
「でも、大切なもんは消えへん」
「形を変えて、誰かの中で生き続ける」

「それは...」

「ゲバラ司令官の言葉や」
山本が、懐かしそうに微笑む。
「あの図書館で、確かに聞いた」

二人の足が止まる。
古い長屋の前。
山本の家だった。

「ここまでで大丈夫です」
玄関に立ちながら、山本が言う。
「この先は、わしの戦いや」

その言葉に、かつての学生運動家の誇りが、かすかに残っていた。

「でも、先生」
山本の声が、夕闇に溶けていく。
「時々、道に迷うかもしれへん」
「その時は...」

「いつでも来てください」
ゲバラの声は、いつもと変わらない。
「私も、あなたの記憶の一部に」

山本は黙って頷く。
その目には、また60年前の光が宿っていた。

診療所に戻ったゲバラを、まちが待っていた。

「先生、記録は...」

「必要ない」
ゲバラは、シガリロを灯す。
「彼の記憶は、もう誰かの中で生きている」

窓の外では、又吉のギターが、古いキューバの歌を奏でていた。
誰も歌詞の意味は知らない。
だが、その調べは魂の奥深くに沁みていく。

まちは、診療所の明かりを、いつもより長く点けたままにした。
記憶を失くした人が、迷い込んでくるかもしれない、
そんな気がして。


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