見出し画像

タルコフスキー「鏡」

今、また急にロシア語熱が高まってきている。きっかけはDuolingoでロシア語に毎日5分でもいいから触れるようにしよう、と決めたこと。

ベルリン映画祭の代わりに今月は出来るだけ意識して映画を観ることにしているのだけれど、その流れでモスフィルム製作の映画が字幕付きで観れることを発見し、タルコフスキーの映画やロシア映画を改めて見直してみようと思った。

ドイツ語音読もそれに合わせて以前、友人にもらったタルコフスキー自身によるエッセイ集のようなものを読み始めた。

そこで、まず取り上げられていたのがタイトルにある「鏡」である。

相変わらず独特の世界観とカメラワーク。

冒頭の何でもない風景がロシアで幼少時代を過ごしたことのある人にとっては、必ず見たことのある懐かしいものであることは間違いない。

何もない田舎の古いダーチェ。近くの雑木林に草原。

道に迷い柵に腰掛ける女性に話しかけ、立ち去る男を引き止めるような激しい風。あんなに強い感情を持つ風を撮れる人はなかなかいない。

雨の中の火事のシーンも水と火の対比が見事だ。

タルコフスキーはこの映画について特に自分から解説を加えているわけではないが、視聴者からの書簡をいくつか紹介しているので、ここでもいくつか気になったものをご紹介したいと思う。

私の幼少時代そのままでした。一体どうやってそれを経験されたのでしょうか?全く当時そのままの風が吹いていました。そして嵐も。「ガルカ、猫を中に入れなさい」祖母が叫んだところ、、、部屋の中は真っ暗で、、、石油ランプが消えたところまでそっくりそのまま。そして母親を待ち続ける気持ち、、、そして子供の自我の目覚めの描かれ方と言ったら!
タルコフスキー「封じられた時間」より

幼少時代に見た風景がそのまま映し出されるような気持ちになった人。

「人は一体いくつの言葉を知っているのでしょう?」というレトリックな質問で始まる母親に宛てられた手紙。「日常生活においてどれだけの数の言葉が使われるのでしょう?100、それとも200、300?私たちは気持ちを言葉で飾り、言葉で痛み、喜び、あらゆる内面の動きを表現しようと試みています。基本的にはそれらを言葉で表現することは不可能であっても。」
同上

言葉の持つ可能性と言葉では表現しきれない感情について母親に問うた手紙なども引用されている。

もちろん中には「何が言いたいのかさっぱりわからなかった。」という正直な感想や批判が記された書簡も。それにもある程度、納得がいく。きちんと筋道立てられたストーリーがあるわけでもなく、ハッピーエンドで終わるわけでもないからだ。当時、上映された「鏡」を観て、がっかりして映画館を後にする観客も少なくはなかったようだ。

リンクを貼ったモスフィルムの映像は日本語字幕ではなく、ドイツ語字幕だがまだ観ていない人はちらっと最初だけでも観て行って欲しい。

*タイトル画像は「鏡」の冒頭シーンより





サポートは今後の取材費や本の制作費などに当てさせて頂きたいと思います。よろしくお願いします!