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娘の推しアニメと登場人物

夜もわりと眠れたが、朝方の咳がひどくて息子のフルーツをタッパーに入れたり、目玉焼きを作って力尽きた。行ってらっしゃい、より前にまたベッドに逆戻り。まだまだ咳が出ると辛いのである。

あー、今日もこんな調子で1日が過ぎるのだろうか、と朝から暗澹たる気持ちになりかけたが、娘と咳をゴホゴホしながら「文豪ストレイドッグス」の推しキャラについて議論を交わしているうちに気分が晴れた。面白い娘である。最近、アニメにやたらとハマっているので私の方が彼女から「これ面白いから見た方がいい」などと言われて、体調不良のため至極素直に、彼女のお勧めとやらを見る流れになっている。

「文豪ストレイドッグス」は久しぶりに日本の文学に触れたくなる、なかなかいいキャラ設定だった。田山花袋の「蒲団」や国武独歩の「武蔵野」なんかを今朝はこれまた咳き込みながら、青空文庫で冒頭をささっと読んでみたほどである。

もちろん自分の興味もさることながら、娘に日本の文学の良さというか、日本語の美しさに少しでもいいから触れてほしい、などと変な親心を出してしまったのだ。

だが、しかし。

それこそ、夏目漱石の「我輩は猫である」でさえ、冒頭からハードルがかなり高いことに気がついた。

「吾輩わがはいは猫である。名前はまだ無い。
 どこで生れたかとんと見当(けんとう)がつかぬ。」

ここはまぁ、まだわかるとしても、次の

しかもあとで聞くとそれは書生という人間中で一番獰悪(どうあく)種族であったそうだ。この書生というのは時々我々を捕つかまえて煮にて食うという話である。しかしその当時は何という考もなかったから別段恐しいとも思わなかった。ただ彼の掌(て)のひらに載せられてスーと持ち上げられた時何だかフワフワした感じがあったばかりである。

まず、漢字が多過ぎる。とてもじゃないがひとりでは読めない。ふりがなをふってもいいが、それで果たして意味が取れるのだろうか。書生・獰悪・種族・別段などの表現はわからないだろう。

小石川の切支丹坂(きりしたんざか)から極楽水(ごくらくすい)に出る道のだらだら坂を下りようとして渠(かれ)は考えた。「これで自分と彼女との関係は一段落を告げた。三十六にもなって、子供も三人あって、あんなことを考えたかと思うと、馬鹿々々しくなる。けれど……けれど……本当にこれが事実だろうか。あれだけの愛情を自身に注いだのは単に愛情としてのみで、恋ではなかったろうか」
 数多い感情ずくめの手紙――二人の関係はどうしても尋常ではなかった。

田山花袋の「蒲団」はまだ12歳が読むには早過ぎるのかもしれない。

では、太宰治の「人間失格」ではどうだろう。

私は、その男の写真を三葉、見たことがある。
 一葉は、その男の、幼年時代、とでも言うべきであろうか、十歳前後かと推定される頃の写真であって、その子供が大勢の女のひとに取りかこまれ、(それは、その子供の姉たち、妹たち、それから、従姉妹いとこたちかと想像される)庭園の池のほとりに、荒い縞の袴はかまをはいて立ち、首を三十度ほど左に傾け、醜く笑っている写真である。醜く? けれども、鈍い人たち(つまり、美醜などに関心を持たぬ人たち)は、面白くも何とも無いような顔をして、
「可愛い坊ちゃんですね」
 といい加減なお世辞を言っても、まんざら空(から)お世辞に聞えないくらいの、謂(いわ)ば通俗の「可愛らしさ」みたいな影もその子供の笑顔に無いわけではないのだが、しかし、いささかでも、美醜に就いての訓練を経て来たひとなら、ひとめ見てすぐ、
「なんて、いやな子供だ」
 と頗(すこぶ)る不快そうに呟(つぶや)き、毛虫でも払いのける時のような手つきで、その写真をほうり投げるかも知れない。

もしかすると、まだ読みやすい方なのでは。とにかく、アニメの主要メンバーの代表作品と代表作品名を教えてあげるだけでも、「あー、あれはそういうことか!」という発見があるのではないかと企んでいる次第。

あ、娘の推しキャラは中原中也だったな、そういえば。

汚れっちまった悲しみに
今日も小雪の降りかかる
汚れっちまった悲しみに
今日も風さえ吹きすぎる

日本語って美しい。


*タイトル画像は「文豪ストレイドッグス」公式サイトのキャラクターページよりお借りしております

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