くるみ割り人形がつなげた世界

シベリア鉄道

こどものころ父が学生時分にシベリア鉄道でヨーロッパや中東を旅した話を聞くのが大好きだった。地元の祭や商店の写真に紛れて無造作に入れられていた、そんなに多くはない海外の写真は想像力を掻き立てた。街角の噴水の周りのベンチに座った女性たちは、ファッション、髪型、目の色、表情、しぐさどれをとっても新鮮で何度となくその写真を妹と見ては、何を語っているのか想像することが楽しみだった。海の向こうにはシエスタというものがあるらしい、海の向こうには別の言葉を話す人がいるらしい、父の話から少しづつ海外を知っていった。
そんな父が欧州旅行で買ったくるみ割り人形が、おじさん(祖母の兄弟)の家の箪笥の上に飾られていた。「これがかーぼーが買ってきた人形や」と見せてもらった人形は、たった2,000人にも満たない小さな漁村の一角にある家の棚に飾られ、極東の異国の地にて、一人の少女を海外へといざなった。

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ちぎれそうなところ

その漁村は大王町といういかにもな名前の町にある。従姉妹が昔海賊がいたから「大王町」っていう土地の名前がついたんだよと教えてくれた。その従姉妹の母は国文学を専攻していたので確かなのだと思う。なるほど大王町波切には九鬼一族の墓があったりするので大王と関係が深そうだ。波切は大王崎の先端にある集落で「伊勢の神埼・国崎の鎧・波切大王なけりゃよい」と船乗りたちに恐れられていた難所で、座礁難破する船が多い所としても有名だったそうだ。
船越の村はとても小さい。いわゆる限界集落、消滅可能性都市でもある。なにせ津波が来たら船が超えてしまう船越と地元の人が言っているくらいだから。そんな小さな漁村をとりあげてくれている、いくつかのブログを紹介したい。

志摩市大王町船越の町並み

 志摩市大王町船越は三重県志摩半島の東南部、先志摩半島の付根部に位置し、南は太平洋、北は英虞湾に面している。
近世を通じて鳥羽藩領。藩主内藤忠政の参勤交代には船を出して、伊良湖村へ渡海していた。
船越村の村高は延亨3年(1746)に291石余、「天保郷帳」「旧高旧領」ではともに246石余。
延亨2年(1745)の家数141・人数753。明治13年の家数361・人数2,029とある。
集落は太平洋に面した船越浜と英虞湾岸の深谷漁港との間の約500m弱程の地狭部に密集している。
農業も行われているが、主に漁業が生業で太平洋岸では、アワビ・サザエの採取漁業を中心に、英虞湾では真珠の養殖が盛んである。
集落内を歩くと、道の細い漁業集落で、軒を接し密集して家屋が建ち並んでいた。海岸から遠い所に旧漁業協同組合の建物も見られた。 

ちぎれそうなところ 志摩市・船越

 真珠・アワビ・イセエビなど高級海産物がどっさり獲れる幸せの地、志摩半島。その周囲は典型的なリアス式海岸で、中でも半島の南部に口を開ける英虞(あご)湾はとびきりのぐしゃぐしゃ地形を演出している。
 その英虞湾の向かいに、まるで湾から細かい島々が流れ出さないようにフタをしているかのような、東西に細長い陸地がある。前島(先志摩)半島だ。紀伊半島を親、志摩半島を子とするならば、前島半島は孫という関係になる。
 早春2月。あたたかな南向きの海岸地方を歩きたくなった俺は前島半島の徒歩縦断を思いつき、地図を広げた。その瞬間、ある1点に目がクギ付けになった。前島半島の根元が、まるでちぎれそうなほどにくびれているではないか。
 そして、そこには「船越」という地名が書き込まれていた。

小さい漁村ではあるものの、国立公園に位置し環境省のホームページにサイクリングコースが載っているのが誇らしい。欧米からの観光客がサイクリングしていることも多く、こんな辺鄙なところまで来てくれる観光客には感謝しかない。名産物は豊富で、これは三重県全体を見ても、全国的にも名産品が多い県ならではの特長かもしれない。

くるみ割り人形へのお返しとして、将来は、東の端の端の小さな村で、地元の新鮮な海産物やお肉で海外の人をもてなし、山や海で遊んだ後はダイナミックな夕日を堪能し、太平洋の片隅の歴史を一身に感じて欲しい、そんな夢がある。

※起業準備にも自分のオリジナリティ、自分のルーツを振り返ることって大切ですよね。自分にしか手がけられないビジネスの強みをより深堀りするために、しばらくエッセイで自分のルーツを辿っていきます。

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