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只人は経験から学び、賢者を目指して歴史からも学ぶ

はじめに

こんにちは、Aizackです。本日のタイトルは自分の好きな名言をもじって、文章を書いてみようという試みです。このタイトルの元ネタは以下です。

愚者は経験から学び、賢者は歴史から学ぶ

オットー・フォン・ビスマルク(19世紀 ドイツの政治家)

これを言ったビスマルクさんは知らなくても、この名言はしっている人も多いのではないでしょうか。(歴史好きな方は「鉄血宰相」やら「ビスマルク体制」あたりの第一次大戦周辺のドイツ・プロイセン史でご存知かと思います。)

元ネタの言葉の意味

愚者は経験から、つまり自身の経験のみから学ぶ。そして、賢者は歴史、つまり他人の経験からも学ぶ。そういう「自身が学ぶ範囲の広さの違いによって人は違いが生まれる」ということを表している表現です。

この言葉への私の思う所

言っていることは大いに正しい、一方で端的すぎて表現が優しくないと感じます。そもそも、愚者という言葉自体が私の好みに沿いません。本気で言及するとそれだけで記事1本になるのですが、本当に愚かでどうしようもない人間はいないと思っているからです。(一方で本当に賢くで素晴らしい人間もいないと思っています。)

なので、優しくないうえに好みに合わない、けれど含蓄のある言葉を自分好みに編集してみようと思った次第です。

只人は経験から学び、賢者を目指して歴史からも学ぶ

「普段、当然自分の経験から学ぶ。ただ、賢者を目指すのであれば歴史(他人の経験)からも学ぶと良い」こっちの方が私好みの表現です!

特別に賢い人間も愚かな人間も私はあまり見たことありません。多分、元は差がないほどに、人間なんて割とどうしようもない存在なんでしょう。ただその中に一部、何らかの目的で賢者を目指し、なにかに熱中して努力を積み上げて結果を残した人(の一部)が偉人として残っているに過ぎないと思うのです。

おわりに

今回は話があっちにいったり、こっちにいったりと散文・乱文です。(いつも?それはただただ申し訳ありません…)決まった筋はなく、今まで以上になんとなく書いています。

そんな中でも伝えたかったことは3つあります。
・人間なんて元の能力は差がなく、愚かでも賢くもない
・ただ、その中で賢くなりたいと何かに熱中した者は賢者になれるかもしれない
・賢者を目指す人が学ぶくらいだから、自分が知らないだけで他人の経験には”素晴らしいもの”が沢山あるかもしれない

以上です。本日はありがとうございした!

おまけ

この文章を考えるきっかけになったのは、近世古典文学の研究者である菱岡憲司さんの以下のポストがきっかけです。このポストが紹介したくて、そしてこの本が読みたくて、更にはこの方が最近書かれているポストが面白くて何かしたいと思って書きました。


どちらかというと、こっちの紹介の方が熱量あるのでこちらが本編なのかもしれません。

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