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なぜスタッキングが可能なのか

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#書評 #国内文学 #小説 #note #読書 #2013 #twitter文学賞

 松田青子のスタッキング可能は2013年最も評価された国内文学のひとつである。錚々たる顔ぶれによる推薦文が帯に並び、Twitter文学賞国内編でも1位に選ばれた。

 オフィスビルを舞台に各階で繰り広げられる一見交換可能な日常を描いた表題作「スタッキング可能」、マーガレット・ハウエルの誤変換から得たという着想を巧みに膨らませた「マーガレットは植える」、“もうすぐ結婚する女”という存在を軸にあっと驚く技巧を披露する「もうすぐ結婚する女」、そして箸休め的に挿入されるショートショート「ウォータープルーフ嘘ばっかり!」、「ウォータープルーフ嘘ばっかりじゃない!」。日常の小さな「おかしさ」を拾い上げ糾弾することによって生まれる「おかしみ」は確かに癖になる。

 ただ、それだけでは説明のつかない何かが本書には一貫して漂っている。「スタッキング可能」で唐突に現れる水辺の半魚人。「マーガレットは植える」で主人公マーガレットが植えることを余儀無くされる「恐怖」。そして「もうすぐ結婚する女」において「もうすぐ結婚する女」が纏っている不穏ななにか。それらの不穏さは、間に挿入される「ウォータープルーフ嘘ばっかり」が発散する過剰なおかしみによって際立たされる。

 ではその不穏さとはなにか。

『スタッキング可能』という本書のタイトルから、収録された短編が積み重ねられたものであると仮定してみよう。ショートショートである「ウォータープルーフ〜」の二編を除外すると、「もうすぐ結婚する女」を土台として「マーガレットは植える」を間に挟み、表題作である「スタッキング可能」という順に並んでおり、発表順に積み上げられたものであることがわかる。

スタッキング可能…「早稲田文学」5号(2012年9月)

マーガレットは植える…「早稲田文学」記録増刊 震災とフィクションの“距離”(2012年4月)

もうすぐ結婚する女…「早稲田文学」増刊π(2010年12月)

ウォータープルーフ嘘ばっかり!/嘘ばっかりじゃない!…「早稲田文学」増刊wasebun U30(2010年2月)「早稲田文学」3号(2010年2月)「WB」vol.019(2010年4月)

 ここで注目すべきなのは「マーガレットは植える」が『「早稲田文学」記録増刊 震災とフィクションの“距離”』に掲載されたものだということだ。つまり本書に納められた短編は「マーガレットは植える」を中心に明確に震災以前と以降に分けられるのである。

 震災によって打ち壊されてしまった「もうすぐ結婚する女」という日常、その日常の残骸を「マーガレットは植える」。かつての日常が植えられた土台の上で宣言される「スタッキング可能」

 松田青子の『スタッキング可能』を一冊の震災文学として捉えたとき、全編を通して漂っていた不穏さはある種の覚悟であったことがわかる。

 中間に位置する「マーガレットは植える」においてのみ、登場人物は名前を与えられている。しかし名前を与えられた主人公はその上でマーガレットという偽名を自らにあたえ、さらに仮装をして「植える」という作業に従事している。「もうすぐ結婚する女」と「スタッキング可能」では登場人物に名前が与えられていない。特に「スタッキング可能」においてはその匿名性は過剰とも思える程だ。それではなぜ、マーガレットは名前を与えられたのか。それは名前を葬るためではないだろうか。私たちは日頃、匿名に守られて生活を送っている。しかし震災に際して、その匿名性がはぎ取られる瞬間を私たちは目にした。それは安否確認放送で読み上げられた名前であり、犠牲になった人々の名前である。

 震災という物語に否応なく参加させられてしまった人々、被災者名簿に記された名前を、再びABCDの交換可能な匿名へ、あるあるに溢れた日常へと還しながら、倒壊し流されてしまったものを松田青子は何度でも積み重ねる。

——そうやって窓の外のビル群みたいな街を作る。『わたし』の中につくる。そうやって『わたし』の街をつくる。そうやって年をとりたい。そうやって死に近付いていきたい。そうやって『わたし』も積み重なりたい。そうすれば、きっと消えない『わたし』が残る。消せない『わたし』がそこに残る。どうかなあ、こういう戦い方は地味かなあ、少しも意味がないのかなあ?

 そして三度繰り返される「ウォータープルーフ嘘ばっかり!」という痛烈な皮肉。ウォータープルーフではなく、それでいてさながらヒートテックのように冷めようとしない何かのことを、私たちはもう良く知っているはずである。

おわり



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