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Z世代化する社会、を読んでいて:コンテンツ化してしまう”私”

若い人たちは、その時点での社会を反映した姿である。
最近の若者は・・・と恐らくどの時代の人間も喋っていたと思われるが、
それはその時点での社会を作っていた大人たちが反省を要する部分がある。本書の趣旨をこのように読み取っている(読んでいる途中であるにもかかわらず、この話について深く考えさせられ、noteに書くことにした)。

私自身、就活に忙しい若い人たちに触れることがある。
「一生懸命、内省に取り組んでいるんです」など、現代社会が求める何かしらの成果を出そうと必死であるように見えた。
私は、「そんなに焦らなくても」と思う。

インターンシップ、就職活動。
なぜ、学生時代に力を入れたことや、何がやりたいのかなど、面接で喋らせるのか、不思議で仕方がない。学生時代に力を入れたことと会社がどう結びつくのだろうか。何を期待しての質問かよくわからない。何がやりたいのか、強みは何か、といった質問については、仕事しながら考えさせればいいんじゃないか。そんな違和感を持っている。
自身も社会に出てみたくて、就職活動をしていた頃、この演劇は一体何なのだろうかと疑問で仕方がなかった。なんか、ごっこ遊びしているようにしか見えない。無論、企業は営利組織であり、採用にコストをかけるのだから、これらの質問をして、会社にとっていい人材を採りたい、という論理があるのはあるのだが。

わたしは、『自身の実存が商品となる、機能として評価されるようになる』という変化が嫌いなのだろうと思う。そして、何者かになれ、と強要される。現代社会で、何者かになれ、というのは、”機能を有するもの”、”その機能を自身のアイデンティティとせよ”、という、若干危険なメッセージだと思っている。「社会に出るというのはそういうことだろ」と言われたら、ぐうの音も出ないのだが。

学校から社会へのグラデーションが全くないことが問題なのかもしれぬ。海外では少し旅に出たり、複数の会社でインターンを体験したりするが、日本では、急に、存在そのものの歓迎から、機能発揮する商材にさせられる。

機能として認められるまで、成功するまで、焦らないといけなくなる。現代は、コスパ、タイパなる、時間やコストを徹底排除しようとする強烈な動きもある。「何者かになりたい、でもこの会社じゃダメだ、やめたい、転職したい」、と思うのは当たり前ではないだろうか。いや、若い人たちがこのような思考回路を辿っているのか分からないが、社会の重い病気の存在を認めざるを得ないのではないか。

哲学者三木清は、成功と幸福を同一視するようになってしまった問題を提言した。成功しなければ、認められなければ、幸福になれない感じ。いかに成功するか、といった方法論について、数多の本が並んでいる。多くのコンテンツが存在する。

そして、成功=幸福という精神状態の現代人は、とにかく、「~ながら」多くのインプットをする。また、飲み会に出ながら、次の飲み会の約束を必死にしているような状況がある。今を生きているのだろうか?

さらに、コンテンツは、インターネットにすぐに展開され、変化は加速しつづけており、特にDNAの変化が大きく起こっていない人体には、大いなる肉体的・精神的負担がかかっている。そのうち、実存がコンテンツになってしまう。もうなっている。いかに効率よく生み出せるコンテンツになれるのか、実存が関数化しているともいえる。インプットをたくさんし、アウトプットを磨こうと焦る。

一切皆苦。すべては思い通りにならない。仏陀の知恵である。
人間の心は、そもそも、現状に不満足になるようになっている。ただ、現代社会では、実存がコンテンツ化された若い人たちが、どんどん焦る。

反出生主義。タイパ、コスパの究極ではないだろうか。成功/苦痛という関数が頭のなかに出来上がるように、現代社会がなってしまっているのではないだろうか。

私は、反出生主義の登場を否定はしない。歴史上繰り返されいるし、現代社会において、この考え方に至るのも理解ができる。
ただ、若い人たちが「希望を持てぬ」と答えている様を見て、心が痛む。そもそもこのラベリングがされることを彼らは望んだのだろうか。それすらも分からない。

こんなことを言わせてしまってよいのだろうか。先行きが見えない不安、ただ楽観的に「大丈夫だ」というつもりはない。ただただ、我々大人は、自身の常識、価値観を、考え直さなければいけないと思う。とにかく時間的余裕が現代にはない。
そのために、私は何ができるのか、スタート地点にやっと立った状態である。


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