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5月、薔薇を見上げる

昨日芍薬について書いていて思ったのは、大人になって花の好みが変わったな、ということ。
年を重ねるにつれて服や小物に関する好みが変わってきた気がする、という記事を以前書いたのだけれど、「花」に関してもそれが当てはまるな、と気づいた。

思えば芍薬にはもともと、なんとなくつんと澄ました高慢な印象を持っていたのだった。
おそらくは「立てば芍薬」のフレーズからか。
身近にその姿を見る機会がなかった、というのも大きな要因だったかもしれない。
それが、5月に入るとああそろそろ芍薬の季節、とそわそわするようになるのだから、人間わからないものだ。

好みが変わった、というよりは、好きなものが増えた、という表現のほうが正しいかもしれない。

この1月に金沢へ旅行したのだけれど、兼六園で見た、咲きかけの蝋梅の花がひどく美しかったことを覚えている。20代までなら、なんだか地味な花だなあ、とスルーしていた植物だった。
名前の通りワックスペーパーのように向こうを透かす黄色い花が、そっけない感じの細い枝にけなげにくっついて、ほろほろと咲いている様子が可憐だ。つやつやとした花びらの質感がなにかに似ている、と思ったら、紙石鹸だった。脆く、はかなく、静謐で、凛としている感じ。息を止めて、何枚も写真を撮った。

ほかにも、雪柳にレンギョウに皐月に。ありふれているし少し野暮ったいなあ、と思っていた街路樹に咲く花が、なんだかやけにきれいに見えるようになってきた。道を歩くたびにお得な気分を味わっている。

「好き」の波は反対のベクトルにも押し寄せている。反対というのはつまり、きれいだけど私にはちょっと華やかすぎる、と思っていた花たちのことだ。ダリアとか、牡丹とか、ばらとか、カサブランカとか。
芍薬もこちらのチームに入りそう。

ばらを好きになったきっかけは、中之島公園のばら園だ。
5月のはじめ、つい最近まで肌寒い日もあったとは信じられないほどの強い日差しの下、ビルとビルの間にぽっかり現れた公園で、あっけらかんとその花は咲いていた。

それまでばらに対する私の典型的なイメージは、きれいに刈り込まれたトピアリーに咲く、ハートの女王様の赤薔薇だった。気高くうつくしく優雅で、近寄りがたい花。あるじの気に入らない姿で咲けばペンキで色を塗り替えられてしまう、少し切ない花。

それなのに、ゴールデンウィークの浮かれた空気のなかで咲く、本物のばらは思いのほか野放図だ。ぴんと尖った青い葉をわさわさとつけて伸びる枝は、隙あらば隣の株の陣地に侵入しようとする勢いである。きっと信じられないくらい手がかかっているのだろうけれど、いいえちがいます、ずっとひとりで生きてきました、と言わんばかりに、大きさも色もとりどりの花たちが、競うようにたっぷりとした花弁を広げている。

つるばらを絡ませた大きなアーチのそばには、その下で写真を撮ろうと待ち構える人々の列ができていた。色違いのフレアスカートと、よく似た白いブラウスを着てポーズをとるかわいらしい女性二人組の笑顔の遥か上で、彼女らとそっくりの伸びやかさで、太陽に向かって笑う白いばら。きっとトランプ兵の持つ刷毛も届かない。

自由で明るくて、チャーミングな花だな、と思った。

そもそも「植物」に関する興味が増してきているのかもしれない。
家を植物で埋め尽くしたくなってきているし、例えば京都に行っても寺社仏閣よりお庭のほうに興味が向く。

そういう話を夫にしたら、「人間は歳を取ると興味がだんだん動物から植物に移って、最後には石を愛でるようになるらしい」と言って笑っていた。

たしかに枯山水なんかにも興味が出始めている。そのうち流木やらごつごつした石やらを集めるようになるのかしら。今は「石」といえばジュエリーなのだけれど。

(かはくの宝石展、行きたい)



好みが変わった話、財布編


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