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「#名刺代わりの小説10選」タグの唯一無二さを語りたい

「#名刺代わりの小説10選」というタグをご存知だろうか。
主にTwitterの、読書や本について発信しているアカウントで見ることの多いハッシュタグだ。

私はこれが好きで、ときどき辿って見る。挙げている本からその人の人となりが垣間見える気がして楽しいし、次に読みたい本を見つけるヒントにもなる。noteでも、これをテーマに書かれた記事をときどき読みに行く。

そんなわけで、実は先日「名前を変えた」という記事を書いたとき、当初はこのタグを使って自己紹介をしようと思っていた。フォロワーさんにも本をお好きな方が多いようなので。

じゃあなぜそうしてないのさ? と思われましたか。

実はやってみてはいるのだ。で、その過程で「このタグ、めちゃくちゃよくできてる……」ということに感動し、自分の10選を公開する前にどうしてもタグ自体の魅力について書きたくなってしまったのだった。ということでそれを先に書いて、次の記事で「10選」やろうかなと。つまりは長い前置きです。

人様の成果物を漫然と眺めるだけではわからないことが自分でやってみると見えてくる、ということは往々にしてある。そして、私がいざ「名刺代わりの小説10選」を選ぶぞ、というときにもそれは起こった。
何かというと、このタグに仕込まれた「制限」による仕掛けである。

まず、「名刺代わりの」というのがニクい。
好きな小説、でもなく、お勧めの小説、でもなく、名刺代わりの小説、なのだ。

名刺というのは概ね、よく知った人ではなく、初対面かそれに近い人に渡すものだ。つまりはこれもどちらかというと内輪で盛り上がるためのハッシュタグではなく、自分のことを知らない人に「自分がなにものか」を伝えるためのものだ、ということ。

まあ小説が好きな人、という時点で若干の内輪感はあるんだけど、それは一旦置いといて。

こう言われてしまうとただ好きな本を羅列するのではなく、自分という人間の趣味嗜好を客観的に表すような本を選ぼう、という意識になる。さらには、知的でセンスのいい人だと思われたい、という邪念も(ちょっぴり……の人もいるだろうけれど私の場合は、ふんだんに)入ってくる。その客観性と邪念のバランスをとるのがなかなか難しく、面白い。
気を抜くと邪念まみれになるので、それはよろしくないだろうけれど。名刺だもん、フォントを素敵なものにしたり紙質にこだわったり、嘘のない範囲でちょっとは「見栄え」も気にしたいよね、というスタンスをとらせてもらいます。

そこに、小説という縛り。
このタグを使おうと思ったとき、実は単に「#名刺代わりの10冊」だと勘違いしていて、念のため検索してみて間違いに気づいた。10冊、のタグもあるにはあるのだけれど、小説と銘打ったもののほうが格段に投稿数が多いので、本家本元はこちらなのだと思う。

本を10冊選ぶのと、小説を10冊選ぶのとでは、自由度がぜんぜん違う。
前者は、自分をより直截的に表すことが可能だ。読書のほかに好きなことや専門分野がある人はそれに関係した専門書を入れるとわかりやすいし、哲学書や自己啓発本などを入れれば、「自分はこんな考え方を大切にしています」ということを一発で示せる。

小説だとそれができない……とまでは言い切れないけれど、難しくなる。小説を介して見える選者の性質には、余白があるのだ。はっきり主張するのではなく、におわせる、というか。

例えば10冊の中に聖書を選ぶ人がいれば、その1冊だけで「敬虔なクリスチャンなのだな」と思われる可能性が高いと思う。書きようによっては宗派まで指定できる。
もしこれが『塩狩峠』だったらどうか。物語の根底に流れるキリスト教的精神に感銘を受けて選んだのか、それとも信仰心に限らない、人の魂のうつくしさのようなものに心打たれて選んだのか、その1冊だけではなかなか判断がつかない。その人がもし「キリスト教徒である自分」を確実に伝えたいのであれば、『塩狩峠』単体ではなく別の小説(『沈黙』とか『ああ無常』とか)との合わせ技が有効なのだろう。

実際にはこのタグでそこまではっきりとした主義主張を表現しようとする人は少ないのだろうけれど、選び方によっては10冊のなかに自分をぴったり表す「文脈」を生成できたり、逆にどこまでも散漫になってしまったりするのだろうなあ。
そしてそれを逆手に取って、同じ小説を読んだことのある人にだけ通じるような目くばせをすることができる、というのも、このタグが人気な理由なのかもしれない。

さらに、10選、である。
「人生を変えた」レベルの激重感情が乗った本だけで埋めるにはやや多く、漫然と好きな本を入れていくには到底足りない、絶妙な数字だ。納得のいくリストを作ろうと思うと、うんうん唸ることになる。

10個ある席の埋め方にもまた、かなり個性が現れそう。たとえば小説のなかでも突出して好きなジャンルや作家がある場合、そのジャンル(作家)に10のうちいくつの枠を割くか、という問題が出てくる。
多くの枠を割けば同胞へリーチしやすくなる気がするし、数を抑えてその分多彩なジャンル・作家を挙げれば、さまざまな嗜好を持つ人から共感してもらえるかもしれない。

先人の投稿を見ていると、ミステリ愛好家の中には10冊全部を推理小説で埋めている、という方が目立って、面白いなぁ、と思う。あとはホラーとか歴史小説、近代以前の文学が好きな方にも、それが好きだ、ということが強烈に伝わってくるセレクトをしている方が多い。
きっと同好の士にとっては「なるほど、そうきたか……」と唸るようなリストがたくさんあるのだろうなと思うと、門外漢の自分が悔しくなる。なんだその楽しそうな鍔迫り合い! 混ぜて!!

私はそんなふうに血道を上げているジャンルがないので、とりとめのないリストになりそうだなあ……と思いながら選んだら、9割国内小説、8割女性作家になりました。偏ってるゥ。
前言撤回、たぶん真剣に選びさえすればどうあがいても散漫なリストにはならない。こだわりがあるひとはある人なりの、ない人はない人なりの、趣味嗜好があらわになるリストが出来上がる仕組みになっているのだ。よくできてる!

そうそう、そんな感じで「なんてよくできたタグなんだ……」と思いながら検討している中で思いついたのが、これ横だけじゃなくて縦に見るのも相当面白くない? ということ。つまり、人ごとの違いを楽しむだけじゃなくて、同じ人の年代ごとの変遷を見るのだ。えー楽しそう。みんなやって。

で、とりあえず自分の分をやってみたら結構沼だった。大学生、高校生と遡ろうとしているのだけれど、想定してなかった方向の面白さがある。
何が面白いって、現在の私の10選を選ぶときの自意識バトルは前述の通り

客観性を大切にしたい気持ち
vs
知的・センスがいいと思われたい気持ち

だったのが、年代を遡ると

客観性を大切にしたい気持ち
vs
高校生や大学生の時の私を知的・センスが良いと思われたい気持ち
vs
当時の自分が持っていた自己顕示欲
(なんか知らんけどめっちゃ蘇ってくる)

の三つ巴になるのである。人間面白すぎない?(私のように自意識が肥大している人間限定かもしれないけれど)
加えて当時好きだった小説への、なんともいえない懐かしさも蘇ってくる。これがエモいというやつか!!

そんなこんなで、頭の中でやいやい言わせてもらいながら昔の分も含めて鋭意選書中です。楽しい~。

そしてなんでこんなことをつらつら書いているかって、こういうことを考えるうちに他の人の「10選」がめちゃくちゃ見たくなったからだ。今投稿されているものよりもっともっとたくさん、見たい読みたい摂取したい。

意識的にせよ無意識的にせよ、今まで書いてきたようなことを考えさせずにはいられない魔力がこのタグにはある気がする。Twitterだと書名を挙げるだけで文字数制限がかかってしまうので、できれば1冊1冊への思い入れまで書かれたやつを読めるだけ読みたい。本好きな人がうんうん唸って選んだ10の小説のリストからしか得られない栄養素がある。

これを読んで「面白そうじゃん……」と少しでも思った方はぜひ、お気が向くタイミングがあれば #名刺代わりの小説10選 をつけて投稿してみてください。タグをたどって、喜びにフガフガ言いながら読みに行きます。よろしくお願いいたします。

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