見出し画像

本の感想:『肉食の思想』を読んで

1966年の昭和の初版で少し古いが、この分野に詳しくなかったので目から鱗だらけであった。むしろSNSなどのメディアで健康食の広告ばかりで辟易していた昨今において、過去の食の歴史を知ることは新鮮であった。西洋の肉食と、日本の和食を比較しながら双方の食を通した歴史をサクッと知れる良書。日本人からみた洋食文化をまとめている。

昔に比べて日本人は洋食や肉食が多くなったと聞いても、昭和時代の著者にしてみたら日本人の肉食は、本場の西洋の肉食文化に比べて「ままごと」程度ということらしい。

日本人の献立をつくるとき「主食とおかず」という発想をする。そこに加えて味噌汁があれば、おいしそうな和食の完成だ。食欲をかきたてられる。主食というと「ごはん」か「パン」か「うどん」か…どれもおいしそうだなと感じる。
しかし西洋の食文化には、日本人では当たり前にように思い浮かべる「主食」という考え方が薄いそうだ。

肉食率の高いヨーロッパでは、主食的なものがどれか、あまりはっきりしない。パンの役割は日本の米飯とまるでちがう。このことは、いわゆる西洋料理のコースの進め方をみてもわかる。パンを食べるのは、ポタージュ(スープ)がおわってから、肉・魚・チキン料理が出ているあいだだけである

鯖田豊之著『肉食の思想』P10より

和食において絶対的な主役の「ご飯」があり、主役のご飯を軸にして味のドラマが展開する。それに比べて、洋食の献立ではパンは主役ではなく、献立のキャスティングの中では群像劇のキャラクターのひとりである。

日本には「主食はごはん」という慣習が、伝統の稲作文化によって培われていた。日本の気候は稲作に適していて、米の生産高が特に多い。極端をいえば、お米さえ確保できれば、生きながらえることができる。玄米にいたっては、ビタミンB1やビタミンE、葉酸、マグネシウムなど、お米単体で栄養素が詰まっている。日本人は万能食材に恵まれ、それを大切に受け継いできた。玄米に関しては、食べるまでに手間がかかるというデメリットがあっても、他の食材に比べて栄養面や長期保存に優れていて、伝統的な稲作で数千年も収穫し続けてきた。お米が食卓の主役になる、というのも納得してしまう。

日本の農業は、伝統的な稲作による食糧確保の安心感がある。しかし西洋ではそうではいかない。本書によると、日本のお米ほど、西洋の土地は穀物による生産高が見込めなかった。穀物だけでは、到底食糧をカバーするのは難しい。
だからこそ家畜が必要であった。長らく家畜と共生する農業が培われることとなる。

ヨーロッパの麦作だけをきりはなして、日本の水田耕作と対比するのは、けっして当を得たものではない。日本の米作にあたるのは、そこでは、麦作と家畜飼育をひっくるめたものである。家畜飼育から切りはなされた麦作は観念上の産物で、実際には存在しない。

鯖田豊之著『肉食の思想』P43

例えば19世紀の農業革命にも、牧畜ありきの農業が行われた。休耕地に家畜のエサになる植物を栽培するようになった。家畜のエサを育てることで土壌も良くなって、家畜も育てていく。野菜や穀物の生産高に加えて、同時に家畜も大きくすることで、十分な食糧を確保していたそうだ。西洋の農業は、農地もなければいけないし、家畜もいなければいけなかった。

最近のニュース記事では、ヨーロッパからヴィーガンという食生活(一部だと思うが)を始めている人がいると聞く。しかし本書を読んで、ヨーロッパの食文化は家畜に支えられてきた面も大きいと感じた。私感として、個人的に菜食を意識するのは構わないが、家畜とともに歩んできた長い食文化を考えると、社会全体としてはヨーロッパの伝統の農法を否定してしまうことは早急なんじゃないかと思ってしまう。
逆に日本は稲作の生産高が大きく、肉を食べなくても、なんとかやっていけた。お米が主役であり、稲作が日本を下支えしていることを再認識できた。日本において水田は、数千年続く日本人の知恵であり、日本人にとって大切な資産である。

洋食発祥の肉食文化も尊重しつつ、いつも通りのも和食をいただいていきたいです。本書でまた、お米凄さが身に染みました。食べます、お米…!

この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?