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変な人 (18)上野、魔法の徳利を持つ男

 その男の徳利から、また一滴、酒が注がれた。

 それは、ある大衆居酒屋のカウンターでの出来事。
 仕事が無事終了した帰途、そのまま帰宅するのもなんだかさみしいなと思い立ち、7割ほど席が埋まった大衆居酒屋のカウンター席でポテトサラダ、焼きトンなどを肴にお銚子を傾けていた。
 その男は、私の隣の席にいた。
 男の前にはツマミはなく、あるのは二合徳利とさかずきだけだった。

これが、かの伝説の魔法の徳利か?

 杯に注がれた酒は今まさに男によって飲み干され、杯がコトンとカウンターに置かれた。
 そして男は再び杯に徳利を傾け、次の酒を注ぐ。
 しかしもう徳利には酒が入っておらず、ほんの少し、ちょろっと雫が注がれただけだった。
 その最後の酒を、男は大事そうに飲み干した。
 ま、別にどうでもよいことだが、私は漠然と男がお代わりを頼むのかな、などと思っていた。
 が、男はそんなそぶりを一切見せず、目の前に置かれた徳利をじっと見つめている。
 そのまま30秒、1分と時が流れた。
 すると男は再び徳利を手に、酒を注ごうとする。
「え、それ空っぽなのに?」
 しかし次の瞬間、意外なことが起こった。
 ちょろり。もう、ほんの少しではあったが、徳利から酒が杯にこぼれ落ちた。
 男はその「ちょろり」を愛おしそうに飲み、再び待ちの姿勢に戻る。
 そのまま30秒、1分。
 男は再び徳利を手に、酒を注ぐ。
 ぽたり。小さな雫が杯に垂れる。
 男はその「ぽたり」を愛おしそうに飲み、再び待ちの姿勢に。
 もう一回くらい行けるのかなー。
 ううう。気持ちはわかるが、なんだろう、この私の心に生まれた狂おしい感情は。
 好きなんだろうなー、お酒。
 注いであげたいなー、おごってあげたいなー。
 でも、そんなことをしたら、男の大切な儀式を台無しにしてしまうような気もする。
 もしかしたら、この男は過去に酒で大失敗し、仕事を首になり、奥さんに逃げられ、子どもとも会うことができず、なんて過去があり、「もう酒は二合以上飲まない!」と誓いを立てている……のかもしれない。
 そんなことを考えていると、再び男は徳利を手に、酒を杯に注ぐ。
 ぽたり。
 うそだろー! もしやこれは魔法の徳利。中でお酒が造られているのか?
 だったらほしいぞ、この徳利!

 (つづく)


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