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2023.12|いちばん思いがけない〈場〉

12月
〈東京ドキュメンタリー映画祭〉の2日目、《戦争の「声なき声」》に行ってみた。

12個の中で、いちばん思いがけない〈場〉だった。

新宿の東口から5分ほど歩いたところに、ケイズシネマというミニシアターがある。ここでは毎年12月に〈東京ドキュメンタリー映画祭〉が開かれる。

約2週間にわたって、短編・長編さまざまな映画が上映される。
社会やそこで生きる人びとに目をこらし、丁寧に描き上げる作品ばかりで、どれを見ようか迷ってしまう。

迷ったあげく、私は2日目の《戦争の「声なき声」》を見ることにした。
3つの短編映画が組み合わさったプログラムだった。


戦争は遊びではない

3つの短編映画の、どの作品だっただろうか。
どなたの言葉だっただろうか。

戦争を体験したある方が言った。
「戦争は、人と人が殺し合うこと。遊びではない」

この言葉を聞いて、みなさんはどう思ったでしょうか。

わたしはつい、「あたりまえじゃない?」と思ってしまった。

そしてその後すぐに、思い直した。
きっとこの人にとってはあたりまえじゃなかったんだ、と。

詳しいことは知らないが、戦時中は戦争ごっこや兵隊ごっこが子どもたちの間で流行したと聞いたことがある。
「ありえない」と思ったりするけれど、実際は今の子どもたちが戦隊ものごっこをするのと、あるいは警察ごっこやおままごとをするのと、あまり変わらない感覚だったんじゃないかと想像する。

わたしは今、子どもたちとゲームを作る仕事をしている。
主人公が敵を爽快にがつがつと倒していくような作品を作りたがっている子どもを見ると、胸がきゅうとなる。

きゅうとなるだけで、何も言わない。何も言えない。
「じゃあそれ作ってみようか!」と返してしまう。


誰かが心をこめて発する言葉は、ゆっくりと聞きたい。
考えに考えに考え抜いた言葉って、意外とあっけない。

でもその凝縮された言葉には、わたしはまだ知らないその人の経験や思いがつめ込まれている気がする。
ぎゅうぎゅうにつめ込んでつめ込んでぱんぱんに膨らんだとき、ぽんっと弾けて出た言葉が、それなのかもしれない。

だから、すぐに自分の中で消化してしまうのではなく
ゆっくり、ゆっくりと聞きたい。

翻弄される自然

3つの短編映画の中で最後に上映されたのは、広島の樹木医を追いかけた作品だった。

樹木医という職業ははじめて聞いたのだけれど、地道に、真摯に、樹木たちと対話を重ねるその人の姿に思わず目を見開いた。

広島の川沿いには、今でも柳の木がたくさん植わっている。
戦時中、日本軍の施設や様子を敵の目から隠すために、しだれ柳が次々と植えられたんだそうな。

それが今では「被爆樹木」と呼ばれ、1つの平和のシンボルとして扱われていたりする。

人間って、なんて都合がいいんだろう。

自分たちの「声」に耳をすませ、何年も何年も、何十年も手当てしてくれる樹木医の先生のことが、被爆樹木たちは大好きなんじゃないかと思ったりした。

牡蠣のはなし

ここまではただの映画の感想である。
〈知らない場〉に行ってみるというこの企画の主旨は、どこに行ったのだろうか。

おっしゃる通りで、もともと〈東京ドキュメンタリー映画祭〉が〈知らない場〉レポートに加わる予定はなかった。
状況が変わったのは、映画を見た後のことである。

映画が終わるとみんなが席を立つかと思いきや、そうではなかった。シアターの中には、それぞれの映画制作に携わった監督や関係者のみなさんが来ていて、舞台挨拶が始まった。
なんと樹木医の先生は私のうしろの席に座っていて、驚きのあまり声がでなかった。ひたすら目をぱちぱちさせて、何度も会釈してしまった。

それぞれの挨拶が終わると、ぞろぞろとケイズシネマのロビーへ。

決して広くはないロビーは、映画関係者やケイズシネマのスタッフ、彼らと話したい観客でいっぱいだった。
わたしもなにか話したかったけれど、気持ちがいっぱいで言葉にならなくて、安っぽい言葉で近づくのが嫌で、すみの方で他の映画の案内を眺めるふりをしていた。

誰かに話しかけられた。
さきほど前で挨拶していた、被爆樹木の映画制作に関わった方だった。

戦争の記憶継承で卒業論文を書いたと話す私に、その方はなぜか牡蠣の話を始めた。

「ねえ、広島と気仙沼の共通点ってなんだと思う?」
「え……なんですかね……」
「牡蠣だよ」(ちょっと得意気)

聞いてみると、3.11の地震で気仙沼が被災した際、その方は「牡蠣」という共通項を頼りに、広島から取材に行ったのだそう。
そして「何かを頼りに現地へ行ってみたことで、はじめて分かることがたくさんあるんだ」と話してくださった。

突然の出来事に、わたしはやっぱり目をぱちぱちさせてしまったのだけれど、その方がとっておきの話をしてくれたような気がしてうれしくなった。


いつもの暮らしの中では絶対に出会わないような人と、絶対にしないような話が、なぜだかできてしまう。
その状況にとまどい、「ああ、そうなんですね」とぼんやりした返しをしてしまう。

でも心はなんだか宙に浮かぶようで、「来てよかったな」と思いながら帰路につく。

まさに〈知らない場〉に行ってみる醍醐味だなと思う。

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