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2023.3|いちばん出会いの多い〈場〉

3月
目黒区にあるクラフトビレッジ西小山で開催された、トークセッション〈しゅたいって?〉に行ってみた。

12個の中で、いちばん出会いの多い〈場〉だった。

トークセッションでは、属性がばらばらな大学生5人が「主体」や「主体性」をめぐって言葉を交わす。リアルタイムでグラフィックレコーディングが出来上がっていく様子を見られるのも、新鮮で面白かった。

始まる前やあとには、人を紹介してもらったり、お友だちになったり、カレーを食べたり。

初めて体験するような独特の空気感や、そこにいる人びとのこと、耳にした話、考えたことを、あらためて書き残してみる。だいぶ時間は経ってしまったが、あらためて。


人に紹介してもらうこと

〈しゅたいって?〉を紹介してくれたのは私のパートナーだった。
彼自身がトークセッションに登壇するらしく、「時間があったらおいで」と言ってもらった。

行ってみると、他の人たちはみんなどこかしらで接点を持っていてるようだった。初めましての人もいるけれど、馴染んだ顔もいるという感じ。

こういうとき、私は意外と肝が据わっているタイプである。
自分が圧倒的にコミュニティの外側だと分かっていても、あまり臆せず話しかけられる。
「こんばんは、今日はどなたとの繋がりで来られたんですか?」

相手からも「あなたは?」とたずねられるので、「私は〇〇のパートナーで……」と自己紹介する。
そう。この場における自己紹介で私が最初に伝えるのは、「〇〇のパートナー」という属性である。大学でも、専攻でも、所属団体でも、出身地でもない。少し新鮮だった。

人に紹介してもらうことの面白いところは、いつもなら出会わないような人と知り合えることである。
普段本屋さんに並んでいても手に取らないような本でも、信頼できる人が「これはぜひ読んでほしい」と言えば、その本を開いてみるかもしれない。

また絶妙に面白いのが、この場における私の第一印象が、彼の人となりによって方向づけられることである。
いくら熱心に語られたとしても、日ごろからその人のセンスを信用していなければ、おすすめされた本を手に取ることはないだろう。

「この人にぜひ関わってほしい」と思われるような人でありたいし、実際に「話してよかった」と思ってもらえる人でありたい。
そして私も、誰かを誰かにおすすめしたいと思ったのだった。

界隈の交差点

〈しゅたいって?〉は、ただのトークセッションではなかった。
これを主催した方が大学を卒業するにあたっての、記念パーティーのような性格を持っていた。

だから先ほど書いたように、集まった人たちの多くは、みんなどこかしらで接点を持っていた。
主催者がこれまで属していたコミュニティのどこかに関わってきた人たちが一同に会する、不思議な〈場〉だった。

たとえば、福島県双葉郡葛尾村を中心としたコミュニティ。
ざっと見た感じ、このコミュニティが1番多かった気がする。葛尾村のインターンシップに参加した人や運営していた人、「松本家展」という展示に関わっていた人など。

他にも、某大学の学生が中心となって中高生に対話のワークショップを届けるサークル。サークル自体はすでに閉じているが、つながりは残っているようだった。私のパートナーも、このサークルがきっかけで主催者とつながっていた。

あとは「読書会」。何度説明を聞いても、どんな趣旨の読書会で、どんな人が集まっているのかよくわからない。たぶんわからないのが正解なのだろう。

それぞれのコミュニティに属する人たちが、ふるまわれたカレーを持ってうろうろし、適当な場所を見つけて会話に入る。
自己紹介をし、一言二言交わして立ち去る。連絡先を交換し、また会う約束をする。久しぶりの顔にあいさつする。

私はこのような空間を「界隈の交差点」と呼びたい。
葛尾村界隈、某サークル界隈、読書会界隈。その界隈にうっすらと関わりを持つ、私のような外側の人びと。

いつもは交わらない各界隈の人びとが、その一晩だけごちゃまぜになる。
「人に紹介してもらうこと」がいたるところで発生している。
普通に生活している中ではありえない量の出会いが、たった一晩につめこまれる。

本当に、不思議な〈場〉。

しゅたいって?

最後に、トークセッションの内容そのものに触れておきたい。

〈しゅたいって?〉ではトークセッションとともに、登壇者の文章をまとめたマガジンを作っていた。
登壇者それぞれの言葉や当日の雰囲気は、マガジンを通して触れていただければと思う。

私も、このトークセッションを聞いて考えたことを残しておきたい。

トークセッションの中で、対話における〈主体性〉が話題になった。
たとえば話し手-聞き手の関係性においては、話し手が〈主体〉だと捉えられがちだ。しかし同時に、話し手は「聞かれる」存在:〈客体〉でもある。

対話は、話し手から聞き手への一方向的な営みではなく、相互の〈主体性〉が作用する中で生まれるものだということ。(違ったらごめんなさい。)

これを聞いて私の頭に浮かんだのは、傷ついた者どうしの対話のことだった。

目の前の誰かが自身の傷について語り始めたとき、私は必ずそれを受け止められるだろうか。自分自身のしんどさゆえに、耳をふさいでしまわないだろうか。

自分が言語化不可能なほどの傷を抱えていたとき、近しい人が「何を思ったか話してほしい」と歩み寄ってくれたとする。
そのとき私は、いつでも必ず〈主体的〉に語れるだろうか。歩み寄りを拒んでしまわないだろうか。

対話において話し手と聞き手が相互に〈主体的〉であることは、頭で理解するよりも難しいことかもしれない。


ここから先は、当時の問いにあらためて向き合った、今の私の考えである。

生々しい傷とともに対話を始めようとするとき、話し手と聞き手の〈主体性〉はどのように関わりあうのだろうか。

「私の傷をあなたに聞いてほしい」
「少しでいいから分かち持ってほしい」
このように願うことは、暴力的である。

「あなたの傷を見せてほしい」
「私にも触らせてほしい」
このように願うことは、傲慢である。

でも、相手を信頼していればこそ、相手を思いやっていればこそ、このように願ってしまうことがある。私にもある。

生々しい傷を抱えながら、自分も相手もこれ以上傷つかないように対話を始めるには、どうすればよいか。

私の暫定解は、話し手と聞き手が、ともに1つの物語を作ることである。

物語は、自分と対象との距離を離しつつも、傷の本質に迫るための手段になりうる。
自分をフィクショナルな人物に仮託したり、状況設定をずらしたり、傷を何かに例えたりして、生々しさを薄めることができる。一方で、傷の本質をずらす必要はない。

また1つの物語を作ろうとする中で、2人は協同者になれる。
「どうしてこう表現したの?」「あの表現と似ているね」
相手の心によく耳を澄ましたり、自分の解釈を研ぎ澄ましたりすることが、自然に行われる。

真正面から傷に触れるのは、もう少し先でもいい。
生々しさを薄めて、でもしんどさの核心を分かち合って、ともに癒すことはできないだろうか。

この問いは、しばらくのあいだ考え続けたい。

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