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読書記録「身体の文学史」養老孟司著

新潮選書
2010

「新潮」で1993年から96年にわたり連載され、97年に単行本になり、2001年に文庫化。そしてさらに2010年に選書化されたのが本書。
芥川龍之介から三島由紀夫まで、「身体」という視点から読み解いた一冊。そして三島事件とはなんだったのかを考えることを意図のひとつとしている。

巻末の対談で加藤典洋氏もいうように難しかった...
その中で面白かったのが自然主義、私小説についての項。自然主義については加藤周一の日本文学史序説を読んで以来、日本人の思考の型として興味がある。
感想というより要約に近いがそのあたりをまとめてみる。

この国では江戸以来、身体は統制されるべきものであり、それ自身としては存在しないという。

要するに、明治大正期の文学は、江戸以来の唯心論を無意識に継ぐと同時に、社会制度にしたがって、心理主義という欧化を行い、「身体を排除した」のである。


そのうえ文明開花により、他人の中の自分のイメージを支える機構である「封建的諸制度」が次第に滅ぼされる。他者から見た自己(社会的自己)は明治以降、徹底的に撲滅され、変化する。
そこで求められたのが社会的自己ではなく「自己の考える自己」についての倫理の開発であり、それは予め社会に規定されたものであってはならなかった。

その流れの中で現れたのが自然主義であるという。
作者が最もよく知っている実験室、すなわち私生活からどれだけのことがいえるか。そういう「誠実な」すなわち「自然」な方法がこの国では社会に求められた。この社会的要請が倫理、あるいは道徳である。
つまり、明治、大正期における文学は倫理道徳の具体的検討にほかならないという。
漱石から志賀直哉に至る親子の葛藤という主題を考えるとわかりやすい。

しかしながら、自然主義においては科学と同様、行き着く先はわからない。
しかし実際の事実がどうか、客観的に決められない。それ故にその手続きは正確であらざるを得ない。そしてそれをどう自分が「自然」に行ったか、その心境はどうか、そこが倫理問題になるのである。
評論もまた結局は隠された倫理道徳を巡って展開する。自己の考える自己の倫理は内部の倫理なので、好嫌=善悪となってしまう。

夏目漱石の小説が倫理的だというのに今更ながらハッとさせられた。
あくまで自己の考える自己というテーマを扱うからこそ、例えば「こころ」を読んで今の自分と同じ状況だと共感したりするのだろう。そしてその内部の倫理には他者の手のつけようがない。外に出せば感情論になる。
唯一絶対の価値観のない日本の独自のものとして、やはり興味深い。

他にも深沢七郎、きだ・みのる、大岡昇平、そして三島由紀夫についても考察がなされている。ただ、自分の中でまだ噛み砕けていない...

最後に印象的だった三島由紀夫についての一節を引用しておく。

日本では文学は個人的作業とみられるからである。しかし、他方では問題は作品であって、作者はそれに無関係に近いという見方もできる。後者の見方をとれば、三島の内部がどうであれ、「客観的」には三島は表現としての身体を徹底的に追求し、しまいに「生首」になった。表現をそこまで追求しえた者が、ほかにあったか。文学はことばであり、それ以外のものではない。そう信じるのは、それで結構である。しかし文学を追求したあげくの果てに、それが「表現としての身体」に転化したとき、それを「個人的動機として理解できる、できない」として済ませられるか。個人的動機として変だから、それは文学ではないといえるのであろうか。

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