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日本詩の芸術性と音楽性(6)-若い詩人の皆さんへ「自由韻文詩のすすめ」-

定型詩でも散文詩でもない「自由な音楽性を持つ詩」を「自由韻文詩」と呼んでその構造(つまり創作法)を一つのシンプルな基本式として提案します。(全10回)
  
     日本詩の芸術性と音楽性(6) 

【現代詩について】

日本古来の発声のみの和語の世界に表記文字としての漢語が伝来した古代以来、ひら仮名が生まれカタカナが派生した中世を経て、西洋言語を貪欲に吸収し続ける現代に至るまで、時代の変遷による語彙・発声の変化こそあれ日本語に脈打つ言の葉の精髄が古代から伝承され続けていることは、音訳意訳の凡その助けがあれば我々現代人でも容易に万葉以来の和歌の世界に没入する事が出来る、という事実で実感する事が出来ます。

そうすると、前述の「伝統詩歌の音楽性の基本式」は「現代詩においても有効である」、という仮説を立てる事は決して的外れではないでしょう。

若い詩人の方々には、先に述べた通り五七調は単なる枠組み・約束事であり、その枠組みを取り払った後にも日本語には本来無数のリズムとメロディーが内在しているので、「音楽性豊かな自由な韻文の創作は現代詩においても十分可能である」との認識と自信を持って頂きたいと思います。
先の「日本詩歌の音楽性の基本式」を意識しながら詩作を続ける事で、最初はぎこちない韻文もどきであったとしても、段々と音楽性に富む詩人独自の「自由韻文詩の世界」が開けてくるはずです。

但し、先程の「音楽性の仕組み(基本式)」は、「詩歌=短歌」についての基本式でしたので、現代自由詩の音楽性の仕組み(基本式)となると若干定義を追加変更する必要があります。

一つには、定型五文字と七文字の制約のために長年顧みられずに眠っていた「6拍」のリズムが自由詩の世界で颯爽と復活し、基本拍が「2拍」「3拍」「4拍」「5拍」「6拍」の五種類となったこと。
もう一つは、これも三十一文字に縛られるが故に短歌では採用し辛かった擬音擬声やリフレイン等の音楽的技法を、自由詩だからこそ存分に使える事になったという福音です。

従って「現代自由詩の音楽性の基本式」は以下の通り定義し直す事が出来ます。

「音楽性豊かな現代自由詩(=自由韻文詩)の基本式」=
「五種の基本拍の組合せ方によるリズム創成」×「各種押韻連鎖によるメロディー彩色」
+「擬音擬声やリフレインなど各種音楽技法による調整・仕上げ」

この基本式からは次のようなことも言えます。

つまり「自由詩」とは「散文だろうが何だろうが自由に詩を名乗れる」の意味ではなく、「古来の定型五七調・七五調の枠組み・約束事と、文字数制約からの自由」とシンプルに解釈すべきでしょう。
何故ならこの基本式を踏まえれば、定型詩よりもはるかに自由で音楽性豊かな韻文詩(=自由韻文詩)創作の基本技法を我々は既に手に入れている事になるのですから、現代詩が「散文を敢えて詩と呼ぶ事にこだわる」必要性があるのか、という疑問が湧いて来ませんか?

日本の近代以降この「自由韻文詩の基本式」を理解した最大の表現者は萩原朔太郎でした。彼の代表的な「口語自由詩」と呼ばれる自由韻文詩の数々を読めば、その事は一目瞭然でしょう。
残念ながら現代詩の超えるべき敵のようになってしまった萩原朔太郎ですが、彼は十年以上に及ぶ短歌への傾注を通じて日本詩歌の芸術的本質、日本語韻文詩の創作技法を完璧な迄に習得し、同時に日本語という言霊に依存する日本詩歌の(敢えて言えば日本人の)情緒の宿命的本質をも深く理解していました。
そしてその一千数百年に亘る日本詩歌の精髄習得の基礎の上に、生来の突出した詩人の本能と才能が朔太郎にあの時代の日本口語を自由自在に操らせ、変幻自在のリズムや押韻や擬声擬音やリフレインなどの音楽技法を存分に駆使しながら、象徴詩としての特異な世界観、病んだ神経世界を表現して日本近代自由詩を正に色鮮やかなものとして確立しました。

現代詩人は古来の伝統詩歌に日本韻文の精髄を学ぶ事に併せて、伝統的な五七調七五調の呪縛からの解放に悪戦苦闘した近代自由詩人達に、とりわけその頂点であった萩原朔太郎の詩作技法・創作技術にこそ学ぶべきではないでしょうか。
(但しここで言う「朔太郎に学ぶ」の意味は決して象徴詩を推奨しているのではなく、写実派であれ生活派であれ社会派であれ、現代詩人の表現したい千差万別のテーマは当然独自のものとして尊重すべきもので、ここではその「創作に当たっての技法・技術についてのみ言及している」事を改めて申し添えておきます。)

日本古来の短歌という伝統的詩作技法の習得から始まり「守」「破」「離」して到達した、日本近代自由詩の頂点である萩原朔太郎の詩作技法を断絶させることは、日本詩の現在と未来にとっての大いなる喪失であり自殺行為とも言えます。

どのような技術・学術・芸術であろうと、先ずは伝統先達の築いた基本・精髄を「守」として習得し、そこから個性を発揮して「破」に進み、最終的に独自の世界を構築して「離」に至るのが技芸進化の原則のはずです。
ピタゴラスの定理を始め、古来の数学の先達たちが発見し築いた歴史的な定理や公式の数々を覚えずに、新しい独自の数学定理を導き出す事は果たして可能でしょうか?
あの独創的な抽象画家である天才ピカソが、神技の様なデッサン力を幼少期から発揮していたというのは偶然なのでしょうか。

「日本現代詩」なるものが読者を失った主原因が、「散文化と難解性」にある事は既に広く認識されている事と思いますが、「頭で理解する散文」とは違って「詩は心で読むもの」という詩本来の存在意義を否定しているところにそもそも根本的な自己矛盾があります。

そしてこの自己矛盾を解消する一つの指針が、これまで述べて来た本稿の内容そのものだとも言えるでしょう。
           
               日本詩の芸術性と音楽性(7)に続く 

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