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日本詩の芸術性と音楽性(7)-若い詩人の皆さんへ「自由韻文詩のすすめ」-

定型詩でも散文詩でもない「自由な音楽性を持つ詩」を「自由韻文詩」と呼んでその構造(つまり創作法)を一つのシンプルな基本式として提案します。(全10回)
  
     日本詩の芸術性と音楽性(7)

我が国一千数百年の誇るべき日本詩歌の宝庫である短歌を始め、俳句・近代詩を含めた伝統的日本詩から日本詩創作の本質を学んで現代日本語の中にも無数に内在するリズムとメロディーを紡ぎ出し磨き上げ、詩人独自の詩情を音楽性と芸術性豊かに高らかに創作する事こそ、現代日本に生まれ合わせた詩人の歴史的使命ではないでしょうか。
そしてまたその創作過程に自ら立ち会える事こそが、現世で報われる事の少ない宿命に生まれた詩人本人のみが享受出来る大きな至福ともいえるでしょう。

萩原朔太郎の詩の音楽性とは、「情緒そのものが音楽である」との本人の主張にも関わらず、彼の独特の情緒個性を的確に或いは本人の意図以上に詩文に表現する、確たる創作技術・技法の裏付けがあって初めて実現されたものである事は論を待たないでしょう。
ほんの数例をあげれば、月に吠えるの「竹」や「春夜」、青猫における「鶏」「軍隊」等は音楽的技法(西行や啄木にも共通する「情緒と詩文リズムの一致」「音質押韻効果の最大化」、に加えて「擬音擬声リフレインの彩り」等)や詩全体の視覚印象効果を合わせた全ての創作技法が完璧なまでに発揮されており、そうだからこそ読者は「朔太郎の特異な詩情や思想を詩という文字だけで」音や色や形という五感に頼らずとも「彼の心の拍動を疑似体験し、想像力を最大限に刺激されてその詩の世界を正に目の当たりにする事で、詩人の魂との一体化を体験する事になる」と言えるでしょう。

 「竹」 

ますぐなるもの地面に生え、
するどき青きもの地面に生え、
凍れる冬をつらぬきて、
そのみどり葉光る朝の空路に、
なみだたれ、
なみだをたれ、
いまはや懺悔をはれる肩の上より、
けぶれる竹の根はひろごり、
するどき青きもの地面に生え。

 「竹」
 
光る地面に竹が生え、
青竹が生え、
地下には竹の根が生え、
根がしだいにほそらみ、
根の先より繊毛が生え、
かすかにけぶる繊毛が生え、
かすかにふるえ。

かたき地面に竹が生え、
地上にするどく竹が生え、
まつしぐらに竹が生え、
凍れる節節りんりんと、
青空のもとに竹が生え、
竹、竹、竹が生え。

      みよすべての罪はしるされたり、
      されどすべては我にあらざりき
      まことにわれに現はれしは、
      かげなき青き炎の幻影のみ、
      雪の上に消えさる哀傷の幽霊のみ、
      ああかかる日のせつなる懺悔をも何かせむ、
      すべては青きほのほの幻影のみ。

                 (萩原朔太郎「月に吠える」より)
 

 「鶏」

しののめきたるまへ
家家の戸の外で鳴いてゐるのはにはとりです
声をばながくふるはして
さむしい田舍の自然からよびあげる母の声です
とをてくう、とをるもう、とをるもう。

朝のつめたい臥床ふしどの中で
私のたましひは羽ばたきをする
この雨戸の隙間からみれば
よもの景色はあかるくかがやいてゐるやうです
されどもしののめきたるまへ
私の臥床にしのびこむひとつの憂愁
けぶれる木木の梢をこえ
遠い田舍の自然からよびあげるとりのこゑです
とをてくう、とをるもう、とをるもう。

恋びとよ
恋びとよ
有明のつめたい障子のかげに
私はかぐ ほのかなる菊のにほひを
病みたる心靈のにほひのやうに
かすかにくされゆく白菊のはなのにほひを
恋びとよ
恋びとよ。

しののめきたるまへ
私の心は墓場のかげをさまよひあるく
ああ なにものか私をよぶ苦しきひとつの焦燥
このうすいべにいろの空氣にはたへられない
恋びとよ
母上よ
早くきてともしびの光を消してよ
私はきく 遠い地角のはてを吹く大風たいふうのひびきを
とをてくう、とをるもう、とをるもう。

                  (萩原朔太郎「青猫」より)


ここまで来たら、彼のうら若き日のみずみずしい名作二編も付け加えておきましょう。

 「夜汽車」

有明のうすらあかりは
硝子戸に指のあとつめたく
ほの白みゆく山の端は
みづがねのごとくにしめやかなれども
まだ旅びとのねむりさめやらねば
つかれたる電燈のためいきばかりこちたしや。
あまたるきにすのにほひも
そこはかとなきはまきたばこの烟さへ
夜汽車にてあれたる舌には侘しきを
いかばかり人妻は身にひきつめて嘆くらむ。
まだ山科やましなは過ぎずや
空氣まくらの口金くちがねをゆるめて
そつと息をぬいてみる女ごころ
ふと二人かなしさに身をすりよせ
しののめちかき汽車の窓よりそとをながむれば
ところもしらぬ山里に
さも白く咲きてゐたるをだまきの花。

 「旅上」

ふらんすへ行きたしと思へども
ふらんすはあまりに遠し
せめては新しき背広をきて
きままなる旅にいでてみん。
汽車が山道をゆくとき
みづいろの窓によりかかりて
われひとりうれしきことをおもはむ
五月の朝のしののめ
うら若草のもえいづる心まかせに。

                  (萩原朔太郎「純情小曲集」より)


現代日本語の中に無限に存在するリズムとメロディーを主体とする音楽性を諦めずに磨き出し、その上に多様な日本語特性の変幻自在な活用による印象効果等を注意深く重ね合わせることで、日本の詩人は初めて自らの感情・情緒・思考・思想を現代人にも受け入れ易く的確に表現する事が可能となるでしょう。
またそうする事で現代詩は再び万人に愛される芸術として、現代文学の檜舞台に再登場する事が出来るはずです。


さて最後になりますが、「現代自由詩の音楽性の基本式」の再確認をしておきましょう。

「音楽性豊かな現代自由詩(=自由韻文詩)の基本式」=
「五種の基本拍の組合せ方によるリズム創成」×「各種押韻連鎖によるメロディー彩色」
+「擬音擬声やリフレインなど各種音楽技法による調整・仕上げ」

「日本詩の芸術性と音楽性(4)」の中で次のように述べました。 
『つまり優れた詩歌においては、「詩歌の情緒の抑揚」と三十一文字に内在する「基本拍数の組合せ方によるリズム」は連動し整合しており、言い換えれば「基本拍数の独自の組合せ方によるリズムにより」作者である歌人は、「自身の心臓の鼓動、魂の拍動を描き出している」とも言えるでしょう。』

この事に加えて、メロディーの主要素である「押韻連鎖」は作者の「感性そのもの」とも言えるでしょう。

そしてこの基本式において「リズム」と「メロディー」は掛け算となっていますが、それは、「どれだけ一方が優れていようと他方の劣後により作品の価値が大きく損なわれる」事を意味しています。
つまり「リズム(基本拍の組合せ方)とメロディー(押韻連鎖)の相互連携こそが日本詩の音楽性の根幹である」ことをどうか忘れずに戴きたいと思います。

今まで述べて来たことは全て、現代詩が見失っている「日本詩歌の芸術性の精髄を」先ずは「守」の段階として「基本に立ち返り学び直しませんか」、との皆さんへの提案であり呼び掛けでもあります。

「自由韻文詩の基本式」を常に念頭に繰り返し繰り返し創作を重ねる内に、この基本式が皆さん自身の潜在意識・無意識下に浸透して、「頭で詩作することなく」感情感性の高まりと共に「魂の拍動がリズムとなり、心が魂と一体となって韻を踏む」体験をする事になるでしょう。
そこから初めて、「破に進み」「離に入る」事が出来るようになる、という一見遠回りの道程を経ることが現代自由詩再興への近道ではないでしょうか。

詩を一個の宝石とすれば、詩人は一人の宝石職人に過ぎません。
詩の原石はその民族の永い記憶の鉱脈に無数に埋もれていますが、ただ本当の詩人のみが「民族言語の本質的な芸術性を極めて、そこに眠る詩の原石を見出し宝石にまで磨き上げよ」との宿命を受けてこの現世に生まれ出て来たのです。

 目覚めよ、言葉の芸術家よ 
 歌え、日本詩の音楽家達よ
 呟きをやめて高らかに歌え
 自らの宝石の輝きを信じて

               
               日本詩の芸術性と音楽性(8)へ続く






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