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【小説】秀頼と家康の会見④

漆黒の僧衣を身にまとい、その僧は頭を抱えていた。その体は小刻みに震えていた。くしゃくしゃに搔き上げる髪はもうなく、手のひらの感触がまっすぐに頭に伝えられた。

僧の名を天海という。後の世、徳川家康のブレーンとしてその幕府創世記の礎を築いたと言われる。しかし、人目に出ることはなく、晩年は日光東照宮の住職となり、徳川家の菩提を守り続けた。

世に出ることが出来ない理由は一つであった。彼の正体を明智光秀という。かつて、織田信長に仕え、その将来を嘱望されるが、信長の愛情を受け止めきれなかった彼は、信長に刃を向ける。しかし、明智光秀だからこそ、信長を討つことが出来た。そのことが歴史の転換点となった。物事の道理を分かり過ぎた彼は、豊臣の世も、徳川の世も抵抗なく受けいるれることが出来た。むしろ、天下が静謐し民が安らかに暮らせる、そんな世の中を夢見ていた。戦国の世を終わりにしようという信長は光秀にとって年下であるが、自分にはない独創的な思考や権力にとらわれずに政策をうてる実行力など目を見張るものが多々あった。

しかし、信長の目線の先には世界があった。まだ見ぬ世界に向けて、その領土的野心は日本に止まらなかった。信長は光秀にだけ打ち明けた。天下が静謐したら、中国へ出兵する。光秀は日本国の宰相をすべしと。100年続く戦国の世に人々は疲れ切っていた。戦国の世を終わりにする、そのために光秀は世の中を放浪した。足利将軍家15代、義昭に仕えた時代も、戦国大名朝倉義景に仕えた時代もあった。ようやく自分が探し求めていた戦国大名が信長だった。それほどまでにまばゆい光彩を放つ人物だった。

光秀は苦悩した。信長の野望が続く限り、民の疲弊は終わらない。中国に打って出ることになれば、数えきれない数の民が巻き込まれ、そして死ぬことになる。考えた末に出した答えが「本能寺の変」であった。信長を討てる人物は間違いなく己だけだった。信長の所在、手勢など最重要機密であり、何重にも巡らせた罠をかいくぐり、信長に辿り着ける人物は光秀だけだった。

その後、光秀は秀吉によって山崎の戦いで敗れ、世から去っていく。人々は少しづつ光秀を忘れていった。光秀はそれで良かった。秀吉はあの戦いの時、民のことはわしにまかせろと光秀に言った。秀吉とは姉川の戦いの頃から、死線をくぐり抜け深い話も何度かした。秀吉は人の気持ちや、心に沈む細かい砂までも見通せる鑑識眼をもっている。秀吉は光秀の思いをよく理解していた。

光秀は安心して、歴史の表舞台から去っていった。民が憂うことのない世がくればいい。それだけを思い、四季を巡らせていた。

しかし、晩年の秀吉は権力に執着し、あろうことか朝鮮出兵を強行した。光秀は焦った。秀吉の目的は中国制覇であり、信長とおなじ野望を抱いたいたのだ。いや、信長の真似をしようとしていたのかもしれない。ただ、時期では無い。光秀は見抜いていた。今の日本が、世界に打って出るには300年の時が必要だ。まだ早い。

光秀は、秀吉に変わる、天下を静謐させ、真に民を思う世をつくれる人間を探した。それが徳川家康であった。家康も姉川の戦い以来、戦場を共にした仲間だった。光秀は、家康に朝鮮との国交の回復、諸外国との健全な外交関係を築き、国内の発展に注力することを条件に、家康の頭脳となった。それが天海である。将軍家2代秀忠、3代家光の秀と光は明智光秀の光秀からとられていた。

天海の震えはこれから始まる会談に向けてであった。秀頼と家康の会談は、間違いなく天下の大乱を引き起こす。それが天海には分かっていた。真の意味で天下静謐のためには豊臣家には滅んでもらわねばならぬ、そう天海は思っていた。そう思わねばならないくらい、若き青年、豊臣秀頼は傑出した人物だった。

新緑の葉に眩しいくらい陽の光が明滅し、天海は目を細めながら遠くを眺めていた。

歴史を学ぶ意義を考えると、未来への道しるべになるからだと言えると思います。日本人は豊かな自然と厳しい自然の狭間で日本人の日本人らしさたる心情を獲得してきました。その日本人がどのような歴史を歩んで今があるのかを知ることは、自分たちが何者なのかを知ることにも繋がると思います。