流れがわかる日本史⑧
こんにちは!本日は平安時代の後半、院政期となりますが、その前に、日本史の授業ではこの辺りから、実は武士の誕生というテーマのお話をするのが一般的です。平安時代の中期から地方では武士が誕生します。理由は単純、律令体制が崩れていき、班田収授が行えなくなると、戸籍を基に土地を配り、税を集めるということができなくなるのです。すると、土地が配れず、政府は最低限の生活保障が出来なくなり、地方の人々は自活の道を探ります。また政府にしても、これまでのような租庸調と呼ばれる税が徴収できなくなるので、他の道を探ります。そして政府が考えたのが、有力な農民に土地の耕作を請け負わせ、一定額の税を納めさせるというものでした。すると、有力農民は、請け負った土地を拠点にさらに土地開発を進めて、私有地を拡大させていきます。そして開墾した私有地は、普通は国司によって公有地に組み込まれますが、この土地を有力農民は貴族に寄進することで、貴族の土地であるということを根拠に公有地とせず、荘園を拡大させたのです。そして、この荘園を守るため、彼らは武装化し、土地開発した者を惣領として、その一族や、配下の農民を従えて武士団というものが組織されていくのです。
そして、この武士団はより強い勢力に守ってもらうため、武士の棟梁を求めていきます。この武士の棟梁は、様々な惣領をまとめあげ、組織していくために、血筋の尊い者が求められます。そして選ばれたのが、清和天皇の血筋を引き継ぐ清和源氏と、桓武天皇の血筋を受け継ぐ桓武平氏でした。これが日本の二代棟梁となっていきます。そして、先に脚光を浴びるのは清和源氏の方でした。彼らは、藤原氏の家人となることで、地方の国司に任命してもらい、地方で武士団をまとめ上げることで、勢力を拡大させていったのです。
長くなりましたが、これからは、源氏の勢力拡大をテーマに、簡単にお話しさせて頂きます。
清和源氏の祖は、源経基から始まります。清和天皇の孫です。彼は、承平天慶の乱と呼ばれる、平将門と藤原純友が東西で反乱を起こした時に登場します。実は、将門の乱の鎮圧には失敗しますが、純友の乱の鎮圧に貢献して、周囲から一目置かれるようになります。そして、その子供の源満仲は、藤原氏の最後の他氏排斥事件の際に、源高明の謀反を密告したことで有名です。密告というのは、なかなかスネ夫のようなずるさを感じますが、代々武人として有名というわけではないところに、リアルさを感じます。
そしてその子供が源頼光と頼信兄弟です。この二人はめっぽう強かったと言われています。頼光は四天王と呼ばれる部下がおり、その一人が金太郎で有名な坂田金時でした。この四天王を含めて五人は、京都の人たちに頼まれて、たった五人で伊吹山の鬼退治に赴きました。そして酒呑童子を筆頭に、鬼の一団を皆殺しにして下山してきたという逸話があります。そしてその弟、源頼信は、1028年に平忠常が反乱を起こしたときに鎮圧軍として関東に派遣されます。すると、房総半島の平忠常は戦わずに降伏します。これは源頼信と平忠常はもともと主従関係があったとも言われています。そして、もともと関東八平氏と言われ、関東に拠点を置いていた平氏は関東から撤退することになり、逆に源氏が関東の武士達からの支持を得て、関東進出を果たしていくのです。
そして、その後、東北で前九年の役と後三年の役が起きます。朝廷にとって支配がいまだ盤石ではない東北で、もともとは蝦夷であった安倍氏が反旗を翻すのです。そして、蝦夷の反乱に対して、源頼信の子である頼義が鎮守府将軍兼陸奥守として政府軍を率います。そして息子の義家とともにこれを鎮圧します。これで東北が平和になったかというと、そうではなく、実は前九年の役を平定するときに、源氏は出羽の豪族清原氏の協力を得て、辛くも鎮圧したのでした。そのため、前九年の役の後は、清原氏が東北一帯を支配するようになり勢力が拡大してきました。それがために、今度は清原氏内部で対立が起きます。その結果発生したのが後三年の役でした。東北に平和をもたらすため、源頼義の後を継ぎ、鎮守府将軍兼陸奥守であった源頼義は手勢を率いて、清原清衡氏を支持する形でこの戦乱を鎮圧します。この後、東北は清原清衡の父が藤原氏だった関係で、藤原清衡と名乗り、平泉を拠点に奥州藤原氏として100年間の栄華を築きます。あの有名な中尊寺金色堂を建立したのも藤原清衡でした。東北は金と名馬の産地であり、京都との交易や、北方との交易により栄華を築くようになります。
さて、源義家ですが、問題が発生します。手勢を率いてこの戦乱を鎮圧しましたが、この戦乱は清原氏の内紛であり、朝廷に対する謀反とは異なると判断され、私戦に対して恩賞は出せないと中央は判断しました。よって源義家は褒美がないのはもちろん、手下達にも一切恩賞がありませんでした。これでは主従関係に亀裂が走ります。源義家はこの時、私財を投げ打って、手下達に褒美を与えました。よって、義家の時代、源義家は関東・東北から絶大な支持を得ます。そして、その後、源頼朝が挙兵した時、平氏全盛の時代にあって、多くの関東武士は頼朝を支持しました。それは、義家の御恩を関東の武士は忘れていなかったのです。ちなみに鶴岡八幡宮も義家の時代に、石清水八幡宮から分祀して、建てた八幡宮です。義家は八幡太郎義家と呼ばれ、長く、愛されました。
しかし、摂関政治が衰退すると、藤原氏と結びついて力をつけていった源氏は、中央での政治力を後退させ、代わって平氏が台頭していきます。なぜか??それはまた次回に話をしていきたいと思います。本日もご視聴、ありがとうございました。
歴史を学ぶ意義を考えると、未来への道しるべになるからだと言えると思います。日本人は豊かな自然と厳しい自然の狭間で日本人の日本人らしさたる心情を獲得してきました。その日本人がどのような歴史を歩んで今があるのかを知ることは、自分たちが何者なのかを知ることにも繋がると思います。