流れがわかる日本史⑩

こんばんは。本日はいよいよ平氏政権の誕生です。何年か前に平清盛を主人公に大河ドラマを放送していました。今年は明智光秀、来年は渋沢栄一、そしてその後は北条義時と楽しみです。

さて、平氏は将門の乱や忠常の乱を起こしてしまい、坂東八平氏と言われた関東平氏は勢力を減退させ、関東から撤退していきます。その一つに三重県の伊勢に拠点を移した伊勢平氏がいます。そこから出てきたのが、清盛の祖父にあたる平正盛でした。この正盛は白河上皇という院政を始めた絶対的権力者に護衛で仕えるようになります。そして、院政では上皇は院近臣で固めて強力な政治勢力を築いていきました。そして正盛は経済的な奉仕と軍事的な奉仕を同時に行う院近臣として大変重宝されていきます。そして白河上皇が創設した北面武士としての抜擢も受けます。上皇と平氏の結びつきがここに生まれていきました。

そして、院政は白河上皇から鳥羽上皇へと受け継がれていきます。そして、この鳥羽上皇に院近臣として仕えたのが、正盛の子である忠盛でした。忠盛も鳥羽上皇の院近臣であり北面武士として、上皇から重宝されます。また、忠盛は瀬戸内海の海賊平定にも活躍し、瀬戸内海航路の安全を確保し、宋の商人を大輪田泊といって神戸の港まで来てもらうことで日宋貿易を活発に行い、経済的利益を増やしていきます。そして、祖父と父の跡を継ぎ、武家の棟梁として西国の武士たちをまとめていくことを宿命として背負ったのが平清盛でした。

平清盛の時代に保元の乱が起きます。鳥羽上皇の亡き後、息子の崇徳上皇と後白河天皇が治天の君をめぐり、つまり院政をどちらが行うかで対立し起きた戦乱です。この戦乱に武士が巻きこまれ、さらに武士の力が勝敗を左右するという「武士の世」となっていきます。武士の実力が認められていくのです。

この時、勝利したのが後白河であり、平清盛、源義朝がいました。これ以降、後白河上皇を中心に後白河院政が続いていきます。この後白河の院近臣が平清盛であり、源義朝でした。するとこの院近臣間で対立が起きます。そして起きたのが3年後の平治の乱でした。清盛と義朝の戦乱でした。

そして、これに勝利したのが平清盛だったのです。1159年のことでした。それから清盛はどんどん出世をとげ、1167年には武士として初めて太政大臣に就任します。これはすごいことでした。それまで、武士は貴族の番犬扱いで、屋敷にも上げてもらえない身分でしたが、その武士が朝廷のトップに立ったのです。これには平清盛は実は忠盛の子ではなく、白河上皇の子であるという噂もあります。

いずれにしても、清盛は太政大臣となり、平家一門が高位高官を独占します。清盛の妻の弟である時忠は、「平家にあらずんば人にあらず」と奢っています。そして、清盛は娘を天皇の妻とし、生まれた安徳天皇を即位させます。いわゆる外戚政策でした。そして日宋貿易の利益や荘園からの収入で経済的にも他を圧倒します。しかし、平家は、朝廷のなかで栄華を極め、そこから排除されたものの多いこと、頼朝のように独立した政権をきずいたわけではなく、既存の政権基盤に依存したことで、反発が大きく、そして世の中が深刻な飢饉が続くなかで平家に対する不満や怨嗟の声が拡大していくのです。そして源平合戦という戦乱が到来します。それは次回にお話しさせていただきます。本日もありがとうございました。

歴史を学ぶ意義を考えると、未来への道しるべになるからだと言えると思います。日本人は豊かな自然と厳しい自然の狭間で日本人の日本人らしさたる心情を獲得してきました。その日本人がどのような歴史を歩んで今があるのかを知ることは、自分たちが何者なのかを知ることにも繋がると思います。