見出し画像

【古代】名門大伴氏 伴善男

伴善男をご存じだろうか?大伴氏(伴氏)はヤマト政権以来の名門豪族であり、かつて大伴金村は継体天皇の擁立に成功し、キングメーカーとして実権を握った時代もあった。その名(姓)の通り、大王の護衛(伴)を生業としてきた軍事貴族である。しかし、大伴氏はその後、新興の藤原氏などに押されて、政権から遠ざかってしまう。

時は平安、藤原北家が天皇家と外戚関係を組み、勢いづいている頃、811年に伴善男は佐渡島で生まれた。佐渡に大伴一族がいた理由は、かつて善男の父や祖父が藤原種継暗殺計画に関与していたからだ。父の国道は恩赦により既に都に戻っていた。父のいない善男は佐渡で、とにかく学問に励んだ。善男はこの時まったくの無位無冠の状態だった。当時の貴族社会は位階制となっており、5位以上を貴族と呼び、社会的地位や経済的特権など、6位以下と隔絶する状況で、しかもヤマト政権以来の有力豪族の子弟が貴族になりやすいように、貴族の子供には一定の年齢に達すればある程度の位階が与えられるという特権もあった。官僚制と言いながら、努力しても越えられない限界がそこには存在したのだ。非常に閉鎖的な社会であったといえる。

父が都にいることを知った善男は単身、上京する。しかし、都に着いてみるとなんと、父はその直前に他界していたのだ。初めて会った兄弟の知遇を得て、830年、善男は校書殿の官人となる。今でいう国立国会図書館のカウンター係だ。名門大伴氏といえども、孤児で無位無冠の善男がつける官職の限界だった。

しかし、善男はここから出世する。善男は兄たちが仕事を見つけてきてくれたことに感謝し、その仕事に全力で励んだ。蔵書の整理や内容把握、難しい本には解説書を用意して、多くの官人が善男のアドバイスに耳を傾けるようになった。そしてこの図書館は天皇も利用する。

ある時、天皇の側近である蔵人の一人が、善男にアドバイスされ天皇が求めた本に追加して、本を持参した。天皇は『君の判断でこの書籍を追加して持ってきたのか?』蔵人は言った。『いえ、校書殿の受付係に伴善男という官人がいまして…』

そこから、天皇の覚えもあり、そして本人の努力もあり、ついに859年伴善男は正三位、大納言の地位にまで上り詰める。その上には太政大臣・左大臣・右大臣しかない。名門大伴氏の復活まであと少しであった。

しかし、そんな善男に事件が起きる。「応天門の変」だ。866年3月応天門が放火されるという事件がおきた。容疑者は左大臣源信、大納言伴善男だ。裁定を下すのは太政大臣藤原良房。良房は清和天皇の摂政に臣下で初めて就任できるかという、大事な時期にあった。良房にとっての脅威は、無位無冠から大納言にまで出世した、たたき上げの官人伴善男だ。良房の裁定は善男を有罪とし、失脚させた。この年の8月良房は正式に摂政となった。

後の世に『伴大納言絵巻』という絵巻物が作られる。伴善男という男のインパクトが当時も非常に強かったことを物語る。

真相は闇の中だ。ただ、言えることは善男はどんな時も困難に立ち向かい、目の前の現実に全力で対応した。その先に何があるのか分からないと感じたことも、あったはずだがとにかく自分を信じて頑張った。そんなひたむきな努力を続けられる善男を覚えていて欲しい。

歴史を学ぶ意義を考えると、未来への道しるべになるからだと言えると思います。日本人は豊かな自然と厳しい自然の狭間で日本人の日本人らしさたる心情を獲得してきました。その日本人がどのような歴史を歩んで今があるのかを知ることは、自分たちが何者なのかを知ることにも繋がると思います。