流れがわかる日本史⑥

今日から平安時代に入ります。平安時代と呼ばれる時代は実はとにかく長い、平安京が置かれていた時代でいうなら、1869(明治2)年に首都が東京となるまで続いているといってもいい。しかし、実際には鎌倉時代から平安時代とは一般的に言いません。だとしても、鎌倉時代は1192年に始まると考えると、794年の平安遷都から約400年もある。400年という月日は、現在を起点に考えると、400年前は2019ー400=1619年です。江戸時代の初期、徳川家康が亡くなって3年後です。なんと、途方もない月日でしょう。

ですから、平安時代といっても、いくつかの区分があります。まず、桓武天皇や嵯峨天皇が律令体制を再建させようとした平安初期、そして藤原氏が摂関政治を謳歌する平安中期、最後に太上天皇、つまりもと上皇が息子の天皇を抑えて政治の実権を握る院政期と分けられます。このように、平安時代といっても、長いので前期・中期・後期と分け、その政治状況も社会背景もずいぶん違う時代となっています。それでは、本日は平安初期を中心にお話をしたいと思います。

平安京に遷都したのは794年です。和気清麻呂が建議をしました。平安京は交通の便がよく、四神相応の地にかなっていました。いわゆる青龍・朱雀・玄武・白虎ですが、ようは川があり、山があり、道があり、池があるという立地で、何より実りがよく、交通の要衝であることが大切でした。現在、京都は新幹線が走っていますね。残念ながら奈良には新幹線がありません。加えて、京都の地は秦氏という渡来系氏族の拠点で、桓武天皇のお母さんあが渡来系の方だった関係で、協力を得やすいということもあったようです。

しかし、平安京に遷都する前、長岡京というところが候補に上がっていました。そして造営長官をつけ、遷都事業を進めていたのです。ですが、途中で放棄してしまいました。理由は造営長官である藤原種継が反対派によって暗殺されるのです。

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系図にあるように種継は式家藤原氏でした。そしてこの式家藤原氏は、光仁天皇の即位に貢献し、その子供である桓武天皇も式家を優遇していたのです。これにたいする反発から発生してしまったのが、種継暗殺事件でした。関係者は処罰されましたが、これに関与したとして十分に調べもないまま桓武天皇の実の弟が流罪となってしまったのです。真相はわかりません。とにかく、弟の早良親王は無罪を主張して、ハンガーストライキ、絶食します。そしてみるみる痩せ細っていき、流刑の地にたどり着く前に死んでしまったようです。

それからです、長岡京では天変地異が吹き荒れ、桓武天皇の関係者がことごとく不慮の死を遂げるのです。人々は早良親王の祟りだと言い始めました。そこで桓武天皇は都を京都の地に移し、神泉苑で早良親王の霊を慰める儀式を行いました。ここから、御霊信仰というものが生まれ、それを今も受け継いでいるのが祇園祭だったりします。当時は皇位は息子に必ず受け継がれるというわけではなく、弟に移ったりすることがままあったため、桓武天皇は自分の子に皇位を継がせたい、そんな心境もあったのかもしれません。

結果的に、皇位は息子の平城天皇に譲られました。ちなみに、桓武天皇の事績に関しては、様々なことがあります。その一つとして私の人物史で「坂上田村麻呂」を紹介しておりますので、そちらもご覧ください!

さて、平城天皇ですが、重い病気にかかってしまい、病気療養という形で弟に譲位するのです。平城天皇には早良親王の祟りを幼い時に経験しているので、この時もそれを思い出してしまったのでしょう。次に天皇になったのは嵯峨天皇でした。しかし、その後、平城上皇の体調はみるみる回復します。この時、政局は平城上皇には式家の藤原薬子や仲成兄妹が、グループを形成していました。一方嵯峨天皇側には藤原北家やその他の反式家グループが形成されておりました。嵯峨天皇に皇位が移ったことで、藤原式家グループは政治の中心から外れてしまいました。そのような状況で起きたのが薬子の変です。平城天皇を重祚させ、再び政治の実権を握ろうとしたのです。しかし、嵯峨天皇側はもちろんそれを認めません。そうこうしているうちに、平城上皇側は、奈良の都に戻り、即位の儀式を挙行して復位を宣言します。

さすがに看過できなくなり、嵯峨天皇は兵をお兄さんたちに差し向けます。平城上皇は引退、式家の薬子や仲成は処刑となりました。ここにおいて、藤原式家は没落し、この時、嵯峨天皇のもとで指揮をとっていたのが藤原北家の冬嗣でした。ここから藤原北家の時代が到来します。ちなみに、藤原北家は、摂関政治を謳歌し、その後も、摂関家として五摂家(近衛、鷹司、一条、二条、九条)と別れ、朝廷で一定の権威を維持し続け、その後、なんと近衛家から内閣総理大臣も輩出します。そういう意味では、非常に長く続いた一族なのです。

この桓武天皇や嵯峨天皇の時代は、律令体制再建期。綻び始めた律令制を修正しようと頑張りました。しかし、沈んでいく船は沈んでしまうもので、崩れかけたものはなかなか、軌道修正は難しい。これ以降は、実情に合わせて、改革するとことは改革し、実態に合わないものはどんどん切り捨てて行かなければいけない時代となります。地方制度の変質の中で武士なども発生していきます。詳しい話はまた次回させて頂きます。今回もお読みいただきありがとう御座いました。

歴史を学ぶ意義を考えると、未来への道しるべになるからだと言えると思います。日本人は豊かな自然と厳しい自然の狭間で日本人の日本人らしさたる心情を獲得してきました。その日本人がどのような歴史を歩んで今があるのかを知ることは、自分たちが何者なのかを知ることにも繋がると思います。