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【近代】藤村操(1886年〜1903年)

第一高等中学校に在学中の藤村操は、16歳にして投身自殺をした。場所は栃木県日光市の華厳の滝である。彼が残した遺書が藤村が「巌頭之感」として残っている。以下の内容である。

巌頭之感
悠々たる哉天壤、遼々たる哉古今、五尺の小躯を以て
此大をはからむとす。ホレーショの哲學竟に何等の
オーソリチィーを價するものぞ。萬有の
眞相は唯だ一言にして悉す、曰く、「不可解」。
我この恨を懐いて煩悶、終に死を決するに至る。
既に巌頭に立つに及んで、胸中何等の
不安あるなし。始めて知る、大なる悲觀は
大なる樂觀に一致するを。

人生とは「不可解」であるという、この時代特有の青年の煩悶を代表する言葉であった。彼の死後、4年の間に185名もの人間が華厳の滝で自殺を図るという社会問題が生じた。これほどまでに藤村操の投身自殺は世間に衝撃を与えたのだ。

明治維新は身分の壁を取り払った。西洋の思想が流入し、立身出世が可能となった。つまり、能力と努力次第で上にのし上がることが出来る時代が到来したのである。これまでの士農工商の時代は、身分が固定されていた。農民の子は農民。武士の子は武士である。それが、そうではなくなった。何にでもなれる。そういう自由を人々は手にしたのだ。

しかし、それによって青年たちは煩悶することになった。自分は何者であるのか?人生とは何か?決められたレールを歩いている間は、安心できた。ところが、自由と解放は己の責任と自立の上に成り立ち、深い自問の中で、真実の自己を発見するという極めて難解な問題がつきまとった。

藤村操の英語の先生をしていた夏目漱石は、朝日新聞社の専属小説家となると、その作品で藤村操の自殺について複数回言及している。夏目漱石は、藤村操の苦悶や煩悶が痛いほど分かったのであろう。もっと肩の力を抜いて、気楽に生きていけたらどんなに楽であろうか。それが出来なかった藤村に対する、怒りにも似た悔恨の気持ちが夏目漱石にはあったのであろう。

第一高等中学校は東京大学に進学する生徒が学ぶ学校である。藤村の頭脳は極めて明晰であった。だからこそ、人生とは何かという問いに対する答えを見出せず、「死」という結論を出してしまったのだろうか。あまりにも早すぎる結論だったと言わざるを得ない。

しかし、この時代はそういう時代であった。藤村操が自殺した1903年は、日本が光栄ある孤立を貫いていた英国と軍事同盟を締結し、西洋諸国と肩を並べるため大国ロシアとの決戦が避けられないという情勢であり、対露戦争に対して、国民世論は圧倒的多数が参戦論であった。東大の教授陣も強硬に主戦論を展開していた。これを藤村操はどう見ていたか。結論から言えば、日露戦争は極東での局地的な戦いに終始し、日本の陸海軍の活躍、講和条約への周到な下準備、ロシア国内での革命の機運の高まりなどの様々な要素により日本有利の講話の締結へと持ち込めた。

一歩間違えたら、完全な敗北であったということも出来る。そんな時代を生きた藤村操の死を悼むとともに、この時代の青年たちの一面を垣間見てもらえたら嬉しく思います。

歴史を学ぶ意義を考えると、未来への道しるべになるからだと言えると思います。日本人は豊かな自然と厳しい自然の狭間で日本人の日本人らしさたる心情を獲得してきました。その日本人がどのような歴史を歩んで今があるのかを知ることは、自分たちが何者なのかを知ることにも繋がると思います。