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【近世】保科正之(1611~1673)

「ならぬものはならぬ」会津藩の家訓として残っている、会津の精神である。会津松平家初代藩主保科正之の精神がそこには込められていた。

保科正之は2代将軍秀忠の実子でありがなら、正室の子ではなく側室の子であったため正之を守るため、3歳で武田家家臣信濃高遠藩主保科正光に預けられることになった。正之の出生の秘密を知っているのはわずかな人間だけだった。

3代将軍家光は、家老から正之が実の弟であることを知り、ひそかに観察をしていた。ある時、正之が小姓として寺に修行に来ており、そこにお忍びで家光が訪ねた。

「正之、お侍さんが訪ねにきているぞ。」「どなたでしょう?」いぶかしがりながら奥の間に入ると、若い侍がそこで待っていた。「お前が正之か、私はお前の親戚筋の者だ。お前と話がしたくて参った。」そうして、お土産に金平糖を出してくれたのだ。当時、金平糖という砂糖菓子は高級品で、そうそう手に入るものではなかった。「よろしいのでしょうか??」「もちろんだ。」それではと正之がいうと、懐から懐紙を数枚取り出し、小分けにしたのだ。「何をしておる?」「お師匠や兄さま達に分けております。みなたいそう喜びます。お侍さま、本当に有り難うございます!」そういって、正之は笑った。家光もそれを見て、笑った。

そして、信濃高遠での生活や、守り役の保科正近の厳しいながらも愛情のある指導や、民の暮らしなど様々な話をした。「私の夢は領民が豊かに、笑い合える暮らしが出来る政治を行うことです。」熱く語る正之に、家光は心を打たれた。そうして、二人の会見は終わった。

その後、正之の後見人であった見性院(武田信玄の次女)により、将軍の子供であることを聞かされた。しかし、正之はそれに驕ることなく、謙虚であろうとする姿に、皆が感銘を受けた。そして21歳の時、高遠藩3万石の藩主となる際、江戸城に登った。「新たに高遠藩主となりました保科正之でございます。天下泰平のため、粉骨砕身精進して参ります。」「当主就任、祝着至極である」そして、正之の前に、包み紙を置いた。「開けてみよ」包み紙を開くと、そこには金平糖が入っていた。顔を上げると、そこにはかつてのお侍さまが座っていた。「名乗りが遅れてすまなんだ、余は徳川宗家3代目征夷大将軍徳川家光である、そしてお前は。。。」「余の弟じゃ」

正之は言葉がでなかった。

「今後も徳川家のために、精進せよ。領民が豊かに、笑い合える暮らしの出来る政治だったな、期待しておるぞ、正之!」

「ははーーー!」

そして正之は、、33歳の時に大国である会津藩23万石の藩主となる。保科正之は誰よりも徳川家を崇拝し、徳川家のために生きた。保科正之が残した『会津家訓15か条』の第一条は「会津藩は将軍家の守護神である、最後の最後まで将軍家のために忠誠を尽くすべきである」

そうして、幕末、多くの藩が将軍家を、見限る中、会津藩だけは将軍家のために最後まで戦った。その精神は、保科正之の精神でもあった。

歴史を学ぶ意義を考えると、未来への道しるべになるからだと言えると思います。日本人は豊かな自然と厳しい自然の狭間で日本人の日本人らしさたる心情を獲得してきました。その日本人がどのような歴史を歩んで今があるのかを知ることは、自分たちが何者なのかを知ることにも繋がると思います。