流れがわかる日本史⑭

新型コロナウイルスが拡大しております。罹患して重症化するのか、誰にもわかりません。罹患しないことと、拡大しないよう心がけていきましょう。

さて、本日は鎌倉時代の中期のお話をさせて頂きます。かつてこの日本に、外敵が攻めてきました。蒙古兵です。1274年の文永の役と1281年の弘安の役でした。結論から言うと、蒙古兵は撤退していきます。日本は戦いに勝利したのでした。まずは、なぜ蒙古兵が攻めてきたのか。そこからお話を始めていきたいと思います。

蒙古襲来から遡ること70年の1206年、源頼朝が亡くなって数年後の頃でした。チンギスハンが部族をまとめあげ、モンゴル帝国の皇帝となります。そして、モンゴル帝国は圧倒的な力でユーラシア大陸全域を支配下におさめていきました。

そして、1260年、チンギスハンの孫フビライハンがモンゴル帝国5代皇帝として即位します。そして、モンゴル帝国の支配領域はさらに東アジアへ広がっていきました。朝鮮半島の高麗が降伏し、中国王朝の宋が南方に逃れていきます(南宋と呼ばれるが、1279年に滅亡)。

北京に入京したフビライはここを首都とし、新たな中国の皇帝となりました。その王朝を元といいます。そして、フビライは日本をも服属させようと使者を派遣してくるのでした。

その頃、鎌倉幕府の代表は若き執権、北条時宗。弱冠18歳でした。この非常事態に、彼は全身全霊で対応しようとします。幕府の方針は元の服属要求を黙殺するというものでした。

その結果、フビライハンは2回にわたり日本を攻めてきます。しかし、先ほども述べましたが、日本はこれを撃退させます。理由としては遊牧騎馬民族の蒙古兵は陸上戦でユーラシア大陸を席巻していきましたが、東シナ海を越えての戦いには慣れていませんでした。また、季節風を利用して航海するためどうしても、台風の時期に重なってしまうのでした。

また、動員した兵は高麗兵や中国兵が多く、彼らの士気は非常に低いものでした。そして、船は朝鮮人に突貫工事で建造させたので、非常にものろいものだったと言われています。

そして、何より、日本人はよく戦いました。北条時宗が統率をとりよく御家人たちをまとめあげて戦ったと言われています。

だからこそ、その後の恩賞不足等で御家人の幕府に対する不満が拡大していくのです。

蒙古襲来で日本軍が勝ち取った領土はわずかもありません。その結果、懸命に戦った御家人に十分な恩賞を与えることが出来なかったのです。そして、土地を財源基盤としている御家人は、代々の分割相続によって、収入を減らし、にもかかわらず貨幣経済の浸透で支出が増えるという悪循環に陥っていました。

このような事態を冷静に対処する有能な官僚は当時、いませんでした。例えば、幕府が貨幣鋳造権を一手に握り、どんどん貨幣を造り、これを恩賞として配ったり、流通させていけば状況は少し改善するはずです。しかし、当時は国内で貨幣は一切造らず、中国からの輸入銭に依存していました。

結果、各地で幕府に反抗する悪党と呼ばれる集団が出現します。これは幕府からみた言い方で、ようは幕府を頼みとしない、従わない人々です。自立した武士たちと考えていいかと思います。その代表が河内の悪党、楠木正成でした。彼は現在、皇居前に騎馬武者姿の銅像があり、とても悪党とはいえません。

そして、これに対して幕府の対応は、より強力な抑圧政治だったのです。これに対して多くの武士や一般の人々が不満を持ち、幕府に対する不信感を募らせることになるのです。

本日はここまでとします。次回はいよいよ鎌倉幕府の滅亡という話をしていきたいと思います。お読み頂き有り難うございました。

歴史を学ぶ意義を考えると、未来への道しるべになるからだと言えると思います。日本人は豊かな自然と厳しい自然の狭間で日本人の日本人らしさたる心情を獲得してきました。その日本人がどのような歴史を歩んで今があるのかを知ることは、自分たちが何者なのかを知ることにも繋がると思います。