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【中世】源義経(1159~1189)

「そうだ京都、行こう。」1993年からJR東海が平安遷都1200年のキャンペーンに公募したキャッチフレーズで、テレビCMの効果も手伝い、今や耳に馴染んだ言葉だと思います。古都京都の名にふさわしい、情緒溢れるこの場所には、趣深い寺社仏閣、戦国・桃山時代や幕末の歴史の跡など、時代を超えて歴史に触れられる場所です。

京都の北方には、京都市内から叡山電鉄鞍馬線に揺られていくと、鞍馬山があり、鞍馬寺や、付近に貴船神社とよばれる由緒正しい社があります。この鞍馬山にはかつて、牛若丸とよばれた、のちの源義経がいました

牛若丸は源義朝の九男として生まれます。父の義朝は平清盛に敗れ戦死、兄の頼朝は伊豆に流罪となります。牛若丸の身も安全ではありません。鞍馬寺に預けられ、ここで幼少期を過ごします。この鞍馬山で天狗から戦術・戦略の全てを叩き込まれたという伝説があります。義経は、戦(いくさ)の天才でした。戦術戦略において天才といえる人物は、織田信長・石原莞爾など挙げられますが、時代を超えて並び称せる天才の一人です

鞍馬寺を出た義経は、五条大橋で武蔵坊弁慶と出会います。弁慶は、人々から疎まれ、人間不信となり、五条大橋で道行く人と決闘をし続けていたのです。999本の刀を奪い、1000本目という時、義経が笛を吹きつつ通りすがりました。弁慶は義経に降参し、それ以来家来となります。

義経は、源平合戦が本格化する中、兄頼朝の軍に馳せ参じます。そして、頼朝軍で常に最前線に立ち、平家を壇ノ浦で滅亡させました。しかし、朝廷の最高権力者後白河法皇は、権力の集中、頼朝の勢力削減を図ります。政治力に疎い義経を利用して、頼朝と義経の間に対立関係を生じさせたのでした。義経が政治的に利用されることを嫌った頼朝は、義経の逮捕に踏み切ります。

頼朝に対していささかの逆心もない義経でしたが、命の危険が迫ると、身の安全を図るため、奥州藤原氏に庇護を求めます。しかし、最大の理解者であった奥州藤原氏3代目当主藤原秀衡が死去し、4代目泰衡が当主となると一転して義経は襲われてしまいます。この時、雨のような敵の矢を受けて立ったまま弁慶は絶命します。これが有名な「弁慶の立ち往生」です

この時、義経は自害し果てたとも、北上して海を渡り、ユーラシア大陸でジンギスカンとなったという伝説もあります。いつの時代も悲劇の英雄には生き続けて欲しいと思うものなのでしょう。西郷隆盛が西南戦争で戦死したさいも、生存説があり、ロシアの皇帝ニコライ2世(日露戦争のロシア皇帝)になったという伝説があります。

さて、京都です。言わずもがな、外国人観光客もたくさん訪れる場所ですが、特にいいのが紅葉の時期だと思います。そうです、京都は秋に行くべきだと思います。ということで、10月後半~11月上旬のところで京都に行ってこようと思います!出来れば鞍馬山にも登り、義経に思いをはせたいと思います。


歴史を学ぶ意義を考えると、未来への道しるべになるからだと言えると思います。日本人は豊かな自然と厳しい自然の狭間で日本人の日本人らしさたる心情を獲得してきました。その日本人がどのような歴史を歩んで今があるのかを知ることは、自分たちが何者なのかを知ることにも繋がると思います。