『音楽の哲学入門』(セオドア・グレイシック)【基礎教養部】
この記事は同じチームメンバーであるNaokimenさんが扱った『音楽の哲学入門』(セオドア・グレイシック)に関する追加記事です。Naokimenさんによる書評・記事は下から。
本書の感想・まとめ
本書は「音楽」を芸術たらしめている要素を考察する。美学や芸術論的な話である。
全部で4章から構成されるが全体の流れとしては、
①音楽は人間独自の「芸術」活動である
②そもそも音楽を言葉でとやかく語ることは良いことなのか?
③音楽経験に関する知覚や情動、美的性質そのもの:表出説と喚起説の批判
④「語り得ない」音楽を語る
といった具合になる。
正直言って私は「音楽」というものを言語化して考えたことがなく思考の蓄積がないため、あまり話の論についていけなかった。加えて著者は欧米の方であるため出てくる例がクラッシクやジャズであったりとミーハーな日本男児の私にはピンとこなかった。音楽」と広くくくるならK-POPやHIPHOPなどのより身近な大衆音楽に関しても言及して欲しかったように思う。本質は同じだろうが、自身に馴染みのない音楽を吸収するとまた違った見方ができるのではないだろうか。
ここから先は私が感じた・考えたことをつらつら書いていく。
音楽と芸術?
そもそも芸術とは何なのか。これに関しては1P程でサラリと触れられているが「人間活動の中でも特異」ということ以外は人の言葉を引用するのみで判然としない。後から様々補足がなされるし、音楽が主題なのでここを必要以上に深掘りするのは話が逸れてしまうのだがモヤモヤが残った。
言葉とともに聴く
最も問題意識を持てたのが第2章である。「そもそも音楽を言葉で語ることは必要なのか」という話がされている。
当然だが筆者は「必要」と論じる。もう少し詳しくいえば、「専門用語を知っている必要はないが、少なくともそれに対応する概念を分かっている必要はあり、概念を理解するためには言語能力は要る」というのである。
これは尤もらしいこと言っているし客観的に考えればそうなのだが、私はどちらかといえば「不必要派」(この立場を本書では純粋主義と名付けている)なので心のどこかでは納得出来なかった。これは本書を上手く消化できなかった大きな理由の一つでもあるかもしれない。
例えば、私はアニメなどを鑑賞する際、作者や声優・制作事情を出来る限り排したいという時期があった。この情報が溢れる社会では「このキャラの声優はOOだ」だの「このストーリーは作者のこんなアイデアから生まれた」などといったことをよく目にするが、それはアニメを「メタ的」に捉えて「創作内の世界やキャラクターを殺す」ことだと考えていた。
(最近ではこの気持ち悪い庇護も薄れてきたが声優が我が物顔でメディアに出てくるのは今でも気分が良くない。キャラに命を与えるというのなら自分は黒子に徹して欲しい。こんだけ声優人気が出てきた今では無理な話だろうが。)
音楽の場合はここまで過激ではなかったが、やはりメタ的に捉えることには抵抗があった。メロディーや歌詞について少し考えてみる程度のことはあったが言語化してメタ的に捉えるのは意識的にしなかった。
言語化・抽象化することでそこになる神聖さを荒く刻んでしまう怖さがあったのだと思う。私は良くロックやHIPHOPを聴くのだがそれ系のアーティストはしばしば「カテゴライズされたくない」と言う。これはつまり抽象化(カテゴライズ)されて自分の音楽の神聖性・具体性が奪われることを危惧していたと思われるが、私が感じていることと恐らく同じである。
このことは音楽の神秘性及び具体化・抽象化の問題がごっちゃになっているため簡単に処理できないが、少なくとも「音楽の神秘性・言葉にできない超越的・超自然的なもの」に関しては第4章でそれなりに示唆されている。ここは分かったような分からないような部分が多く下手に述べたくないので各自で読んでみて欲しい。音楽を語るにもウィトゲンシュタインやショーペンハウアーまで出てくるのは驚きである。
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