【第6報】教科書の内容について勉強することは無駄ではないけど全てではない
この前、羊土社の実験医学11月号を読んで得た感想を以下にツイートした。
このツイートに対して、予想以上に非常に多くの反応をいただきました。
まだまだフォロワー数も少なくて影響力が小さいですが、少しでも化学に対する興味を持つきっかけとなれば、これ以上嬉しいことはありません。
ただ、少し気になる反応も見つかりました。
せっかく学生時代に勉強して得た知識なのに、それが違うと言われるなら、勉強する意味はないのではないかと思う人もいるようだ。
気持ちはわかります。私も今でこそこうですが、大学学部時代は勉強することはそれなりに苦痛でした。当時の自分なら同じことを言っていたでしょう。
だからこそ、「本当にそうだろうか?」と言いたいです。
この辺について、自分自身の考えを掘り下げていこうと思う。
教科書に載っていることは過去の研究の集合体
まず前提として書いておかなければいけないのは、教科書の内容は完璧ではないということ。
そもそも実験結果と考察がなされ、しっかりと論拠が確立していないと教科書に載ることはない。だから教科書に載っていることは研究内容としては数十年前の内容だったりする。
(そういう意味ではノーベル賞も似たようなことが言えますね。)
最新の研究を追うと、もう本当に色々な研究者が色々な研究結果を提示しながら議論がなされている。
そう、まだわかっていないことが自然にはたくさんある以上、教科書に載っていることがすべてではない。
もちろん反対に言うと、現在わかっていることが最もよくまとめられているものは教科書だと言うこともできる。高校の資料集とかどこ言ったかわからないの結構悔やまれる。今読みたい。
教科書と違うことが提唱される=間違いではない
では教科書と違うことが提唱されれば、教科書の理論は間違いなのか?
これにはYESともNOとも言うことができない。以下2パターンに分かれるのかなと推測する。
教科書の内容が間違っている
1つはYESの場合。ある現象の原因物質と言われていたものは、実は現象の結果として現れていただけであって、本当の原因物質は他にあった、といったのはコレに当たる。
これも教科書が作られた段階では間違いではないとされていたのだ。間違いを教えたいわけではない。現状の理解を示したが、最新の実験結果で覆されたというもの。
教科書の内容が基本だが、例外・特殊なパターンが存在する。
これは基本的には教科書の内容が正しいので、NOである。ただ、それだけではすべての現象をうまく説明できない例外が存在することがわかったというパターン。
今回の実験医学の翻訳機構に関しては、こちらに当たるのではないかと思う。
基本的にはタンパク質の翻訳は開始コドンで始まり、終止コドンで終わる。しかし、ある疾患・ある核酸配列を持っている場合は異なるパターンで発現をする、ということである。
これで教科書の内容が間違っているとなれば、タンパク質化学者は揃って発狂することになるでしょう。
タンパク質発現のために用いているプラスミドは、発現させたいタンパク質の核酸配列を開始コドンと終止コドンで挟むことで設計するからだ。
それによって(とくに真核生物のホストで)作製したタンパク質はどんな配列を持っているのかわかったものではない。
(まぁ実際はしっかりと精製するし、必要ならアミノ酸の配列分析をすることで確認するので、実際に発狂まではしないかもしれない。)
科学の発展は教科書が書き換えられること
科学の発展はすごく長いスケールをもって行われる。
研究者は日々実験・解析・議論に忙殺されているが、教科書が書き換わるほどの研究成果は一朝一夕には出ない。
だから「学生時代に習うこと」というのは基本的に学生時代の間に変わることはほとんどない。
だから、「教科書が書き換わる」ことに対し、それ以前に学習した人たちは抵抗を覚える。
でも本来、教科書が書き換えられることは喜ぶべきことです。科学が発展した、人類がまた一歩前に進んだということなのです。
研究者以外には関係ないか?そんなことはありません。自然に対する解像度が上がれば、より詳細にメカニズムを追える。
たとえばより病気にクリティカルにヒットする薬が作れるようになると、その結果私たちの暮らしは豊かになります。
「創り出す」ことが仕事の本質
さて、これまでの内容を少し抽象化してみます。
社会人になると、過去の勉強よりも答えの無い問題に立ち向かうことの方が多いです。
私は研究者という職業に就いているので、まだ未知の事象に対して実験と考察を重ねて答えを導くのが仕事です。
でもこれは研究者だけのものではなくて、ものづくりの会社全般に言えること。
それどころかどんな業界でも、より高品質のものをつくる、同じものでもより効率的につくれるようにする、という点においては本質は同じだと思っています。
そして、それについて、過去の知見の中に答えはありません。あったら我々はもうそれを利用しているというパラドクス。
答えがないからトライ・アンド・エラーによって地道に積み上げるしかない。
こうして社会は発展してきたのではないのかなぁと思います。
だけど何も知らずにモノは創れない
うん、じゃあ結局教科書はいらないんだね、とはならないのです。
闇雲にトライ・アンド・エラーしても生み出せるほど人は賢くないです。
だから人類は少しずつ知見を積み重ねているのです。
こうした人類の努力の結晶をまとめたのが教科書なのではないでしょうか。
だから教科書の内容を学ぶことによって、これまで積み上げたところまでは登れるようにしようというのが、学ぶ意味です。
よくアカデミアに対して「巨人の肩の上に立つ」って言いますけど、それに近いかもしれません。
だから教科書がすべてではないし、教科書は完璧でもない。
教科書を利用して、よりよいものを創り出すのが仕事です。
ちょっととりとめもなくなりましたが、この辺にします。
もっとサラッと書きたいことが書ける文章力と語彙力がほしい、と悩む日々です。
いっぱい教科書・参考書を買って勉強します!!