見出し画像

30年後の教科書は、どう今を書くんだろう?

久しぶりの更新となってしまっていて、非常に心苦しい。すみません。しかし、本当に(本当に)気が向いたら、書いていこうかと引き続き思っているところである。

最近は仕事も忙しくさせていただいていたが、同時に本を読んだり、新聞読んだり、ドキュメンタリーを観たりといった雑多なインプットをしてきた。正直、自分の糧になっているかは心許ないが、しかし、自分を信じて、インプットするしかないなといつも思いながら、知識を摂取している。(部屋の中にある積読を見るのが辛い・・・読まなければ・・・)

ここ最近は歴史的な出来事が立て続けに起こっているのは、皆さんもご存知の通りで、思えばコロナ禍に始まり、ここ3年弱は本当に色んなことが起こったものだ。確実に教科書に載る出来事の連続である。そして、その出来事の中で懸命に生きているのが、私たちなわけである。

なかなか、暗そうな世相であるけれども、私たちはいつも暗いわけではなく、楽しく時間を過ごすことももちろんある。おそらくは、多かれ少なかれ、どの時代でもそうだったのかもしれない。

正直、重大な出来事のその時を生きている私たちは「灯台下暗し」の逆で実はあんまり「重大な出来事」とは認識していないのかもしれない。リアルすぎるし、出来事から連続して、生活が続いている中で、徐々に影響が浸透して、「あれ、今思えば・・・すごい事件だったな」と時間が経てば、やっと「日常の出来事」から断絶されて、「歴史」になっていく。

よくよく考えると、ドキュメンタリーや本で歴史を俯瞰する作業をする時、「なんで、こんな行動をしたんだろう?」といった違和感が頭をよぎる。人間の愚かさ、一時の陶酔、過度な自信喪失。こんなことを歴史から感じる(あくまで、感じる)。

私は1985年生まれであるが、バブルなどはあまり覚えていない。覚えていることと言えば、海外旅行をした時に「ちょっと円がすごい強かったな」とか、何となく「日本って豊かなんだ」と小学生にちょっと感じたくらい。でも、子供がそう感じるくらいには、日本は強かったんだなと思うし、世相に自信を持っていたのだなと振り返れば、そうなんだろうか。今考えれば、陶酔や熱狂もあったんだろうな。

「そういう時代の雰囲気だったんだ。」
バブルの歴史を当事者が語るとき、よくこういう言葉をよく聞く。
それは別にバブルに限らず、様々な出来事を語る当事者の多くはそう語る。
(8月は戦争関係の番組が多いので、戦争についてはより感じる)

後世の私は何となくは分かるけれども、完全には分からない。
「いやいや、どうして気づけなかったの?」そんな思考に襲われる。ただ、歴史を見るときに、後付けが良くないとは思ってもいるので、その思考はノイズとしてなかったものにする。

出来事は意味を付与されないと分からない。これが歴史なんだと言われなければ、歴史とは気づかない。それまでは、日常のよくあることの一つとして、決して優先順位が高くない位置で、自分の中に存在する。生活を一生懸命に送り、一生懸命に生きようとする。そのためには世相にあったそれぞれの「正しさと合理性を持って」動く。

しかし思うんだ。「正しさと合理性を持ってても間違う時は間違う」ことを実は歴史を学ぶことを通じて、知っている。

だって、そうだろう。あのバブルの熱狂と陶酔は何だったのか。戦争中の熱狂は何だったのか。後世の私から見ると非常に奇妙で、訳が分からないことが沢山ある。「なるほど」と相槌を打ったところで、それ以上でも以下でもない。

しかし、難しい世相にある現在地点もおそらく後世の人からはそう感じられるんだろうな。

感情とは厄介なものであるし、人間は目先の感情や勘定で動いてしまうのは、歴史が証明しているように思えるし、似たことの繰り返しをしているだけのような。

今を生きる私たちはよほど注意をしなければ。常に危うさを感じていかなければ。

「目先の感情や勘定で動いていないだろうか?」
過度な熱狂と過度な自信喪失に失ってないだろうか。
そう常に問いかけてみたいし、常にニュースを歴史にしていく作業をしていかなければ。30年後に頭脳をタイムスリップさせて、30年後から観察をしていきたい。愚かなのか、どうか。

どう、のちの歴史の教科書に書かれるのだろうか。
う〜ん、今のところどうだろう。

そう思いながら、新聞を眺めながら、歴史の教科書を読んでみる。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?