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黒焦げ死体の前で記念撮影をした人たち( リンチ殺人メモリアルのこと、その2)

アメリカの人種差別は、「人が人を所有する」というのが普通であった時代からの遺産だ。

19世紀なかばの南北戦争は、奴隷制度という今から考えるととんでもないシステムをやめるために、アメリカが通らなければいけなかった道だった。

白人による黒人のリンチ殺人が真っ昼間に広場で行われるようになったのは、南北戦争のあとだった。

南北戦争について考えると、アメリカという国が抱えていた矛盾がよくわかる。

5年くらい前にアトランタに行ったときに、地元の歴史博物館で南北戦争についての展示をけっこう時間をかけて見て、それまでごくボンヤリとしか把握していなかった南北戦争というものを、初めて実感をもって少しだけ理解できた気がしたのだった。

アトランタの博物館の展示の中には、南北戦争直前にアラバマのとある農場主が言った言葉が掲示されていた。

"There is no middle ground to be occupied.  It is right and just that the black race should be held in bondage, or it is wrong and sinful."   Nathaniel Macon, Alabama planter, 1860
「中立的な立場なんていうものはあり得ない。黒人を奴隷にしておくのが正当で良いことなのか、あるいは不当で罪深いことなのか、どちらかだ」

そりゃそうだろう。

と、現代のわたしたちは思うのだけど、150年前の米国では、これが根源的にホットな問題だった。

たった150年前のことだ。

150年前ってすごく昔の気がするけど、実はそうでもない。

21世紀の現在となっては、「人間を所有し拘束し、売買すること」が「正しいこと」とされていた時代を想像するのは、難しい。

でも150年前にはそれは現実に経済上の大問題であり、奴隷制を擁護する人たちは法律や聖書の言葉を駆使して、既得権益と既存の秩序を守るために戦った。

いやいや、あなたたちの言う理想はわかるよ、でも残念だが世の中はそういうふうにはできていないんだよ、と彼らは言った。

奴隷制をなくしたら、国の経済も秩序も大変なことになるのが君らにはわからんのかね、と。

中立点のない争いは、国を二分する戦いになって、62万もの国民が殺し合って死んだ。

62万人。
杉並区の人口よりも多い人間が4年間の国内戦争で死んだ。
第二次大戦での米軍戦死者よりも多くの人が死んだ。国内で。

南北戦争は、ペリーが浦賀に来てから明治維新が起きるまでの間、幕末と同時進行で起こっている。

そう思うと、19世紀なかばのこの時代というのは世界的にものすごいパラダイムシフトの時期だったんだなあ、と、今さらながらその数十年間の密度にびっくりする。

もちろん北軍が正義の味方だったわけではないし、南北戦争で奴隷の解放が義務づけられてからも、奴隷から小作人に身分が変わっただけで、元奴隷の生活も立場もほとんど変わらなかった。

南北戦争終結後、政府が優先したのは国の経済的復興と統合であって、人種間の平等などではなかった

憲法に書いてある「権利」という空約束を根拠に、キング牧師ら黒人指導者たちが政府と正面から対決しはじめるのは、その90年後、20世紀なかばになってからのことだ。

そして、南部での白人による黒人への「人種テロ」が熾烈を極めたのは、南北戦争後のこの時代だった。

自由になった黒人たちが自分たちも白人と同じ権利を有するなどという間違った考えを持つことのないように、白人たちはしっかりクギをさしておかねばならなかった。

「ジム・クロウ法」と呼ばれる人種隔離の法律が作られて黒人の権利を制限し、生意気な行動を取った黒人はあちこちの町で見せしめに拷問されて殺された。

この時代、19世紀後半から20世紀はじめにかけてのリンチは、白いフードをかぶったKKKのような秘密結社によって夜中に行われたのではなくて、白昼、何千人もの群衆が見守る中で、町の広場で行われるのがふつうだった。

南部だけではなくて、件数は少ないけれど、イリノイ州など北部でも起きていた。

リンチの理由の中で一番多かったのは、白人女性が黒人に襲われた、というデマだった。

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広場に吊るされた死体と、それを取り囲んでいる白人の大群衆の写真がいくつも残っている。白人の群衆は教会に行くようなパリッとした正装で、拷問されて黒焦げになった死体の前で微笑んでいる。

子どもたちも一緒に。

こういうリンチの写真は、記念絵葉書として流通してもいた。

「リンチの絵葉書は人気で、リンチ写真の販売は写真館のサイドビジネスとしてよくおこなわれていた」と、『ガーディアン』の記事は述べている。(注意:リンク先には黒焦げ死体の写真があります)

こうしたリンチは黒人コミュニティ全体へのメッセージだった、と、「正義と平和のためのメモリアル」の発起人、スティーブンソンさんはCBSの番組のインタビューで語っている。

ある男性は「白人女性の後ろを歩いた」というだけで惨殺された。夫をリンチした白人たちに抗議をしにいった妊婦も殺されて吊るされ、胎児も引きずり出された。声をひそめて生活しなければこうなるという見本として、ぶら下がった黒焦げ死体は何万人ものコミュニティの記憶に刻まれた。

メモリアルは、こうした負の遺産を「なかったこと」「忘れたこと」にせず乗り越えるために作られた、と、スティーブンソンさんは語っている。

(その3に続きます)


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