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シュタイナーの神智学

スピリチュアル系で安直に引用されてる感の大きい、シュタイナーの神智学。

古書店でふと目にとまったので、この際読んでみようと思った。

ちくま学芸文庫、高橋巌訳。

原書の初版は1904年に書かれ、ヨーロッパで版を重ねたもの。1922年の「第9版のまえがき」もこの文庫版に掲載されている。

もっと難解な本なのかと思っていたが、意外にとても読みやすかった。

前半は「人間の体の本性」「人間の魂の本性」「人間の霊の本性」「魂の世界」「死後の魂」「思考形態と人間のオーラ」などについて述べられているのだが、しかしその情報はいったいどこから?という根拠がまったく示されていなくて困惑させられる。

「この生命体を見、それを他の存在の中に知覚するためには、目覚めた「霊眼」が必要である。霊眼をもたなくても、論理的根拠から、生命体の存在を容認することはできるが、色を肉眼で見るように、それを見るには、霊眼をもってしなければならない」(47ページ)

うーん、こう言われても自然科学の人は納得しないだろうなあ。

「補遺」の中で、オーラについての論述を「自然科学的観察方法に即した実験によって証明すべきだ、という要求が当然出されるだろう」としながら、シュタイナーは「しかし個々の場合にその人が霊界における何かを知覚するかどうか、そして何をその人が知覚するのかは、自分できめられることではない。それは霊界からの贈り物として与えられる。恣意によってそれを手に入れることはできない。それが自分のものになるまで、待たなければならない。知覚を生じしめようとする当人の意図がこの知覚を得る原因になることは決してないのである。しかし自然科学的思考が実験のために要求しているのはまさにこの意図なのだ」(229ページ)と述べている。

なるほどー、自然科学と信仰の交差点はここにあるのだ。

あともうひとつ、おおなるほど、と思ったのが

「迷信とは、これらの存在を現実にあるものと見做すことなのではなく、それらが感覚的に現象すると信じることなのである」(175ページ)

というところ。

シュタイナーという人はとてつもない異才で、そして19世紀後半〜20世紀初頭の世界にあって、ほんとうに真摯に思索を深めた人だということが伺える。大学では数学、化学、物理学、動物学、植物学、鉱物学、地質学を学び、ゲーテとニーチェについて研究し(236ページ)、「時代の流れの中に目立たずに真の霊的内容を注ぎ込む」ようつとめていた(240ページ)。

シュタイナーは自らの生きる19世紀末を「哲学がもはや救いようもなく不毛な状態にあり、神学が偽善の産物であることにみずから全然気づこうとせず、そして諸科学が、経験上の偉大な発展にもかかわらず、荒涼とした哲学的蒙昧に陥っている」(242ページ)時代、と感じていた。

オーラとか霊界とか魂の話はほかに譲るが、わたしはこの書の後半にとても感銘をうけた。「認識の小道」と第された、「高次の現実を自分で霊視しようとする人」が「作り出さねばならない特質」を示しているが、これはなにも霊界を見るためだけではなくて、現実世界を見るためにとても有効な方法だとわたしは思う。

それは「人間生活や人間外の世界が開示するものに、偏見を排して、ひたっむきに帰依することである。…学ぶ者は、いかなる瞬間も、異質の世界を容れることのできる、まったく空の容器になることができなければならない。われわれ自身に発する判断や批判のすべてが沈黙する瞬間だけが、認識の瞬間なのである。」(197ページ)

無分別な幼児にさえ、賢者に対して開示すべきなにかを持っている、とシュタイナーはいう。判断を保留して真摯にそこから学ぼうとすることで、驚くべき視界がひらけるだろう、というのだ。

「このとらわれることのない帰依は、「盲目的な信仰」とは如何なる関係ももたない。盲目的に何かを信じよというのではない。生なましい印象を持つ代りに、「盲目的な判断」を下したりしないように、というのである。」(198ページ)

私たちはいかに多くの「盲目的判断」を身に着けて暮らしていることか。

この「帰依」をこれからの座右の銘にしたいと思う。








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