私にとっての『やさしさとは』
私にとっての乃木坂46『やさしさとは』を定義するのは難しい。強いていうなら、私にとって『やさしさとは』は、「階段島」「サクラダリセット」に近いものなのだと思う。私を私のままみつめる瞳。あるいは、私が私のままでいいんだと教えてくれる存在。
今となっては私がこの曲と出会ったのがいつのことだったのか思い出せないけれど、少なくない時間を共に過ごしたことは確かだと思う。私が苦しいときや、悲しいときに、『やさしさとは』は私に寄り添ってくれた。
次のような歌詞がある。
私がまっくらやみに沈んでいたとき、この歌詞に何度も救われた。私は「救われる」という表現があまり好みではないのだけれど、ほかに適当な言葉をみつけられなかったのでここではそう表現することにする。
これまで私は、何度も道を踏み外してきた。いわゆる「普通」から逸脱して生きてきた。私はそんなこと望んだことはないのに、気づいたらそうなっていた。できるなら普通に生きたいなと今でも思うけれど、今となっては別に私がたどっているルートもそれはそれで悪くないと思えるようになった。そう思えるようになったのは、やはり『やさしさとは』の存在が大きいのだと思う。
言葉にしてはっきりいわれなくても、この世界──少なくとも日本では──「正しさ」がある。私は、正しいほうを選べないでいた。生きていればいろんなことがある。いろんな事情がある。私は、私がいわゆる「普通」から逸脱せざるを得なかったルートをたどっているから他者にも自分にも比較的寛容であれていると思う。けれど、世界のほうはそんなこと知ったこっちゃないというだろう。正しいほうばかりを選んで、あるいは選べて生きてきた人のほうが少なくないのだとも思う。私は、私がそうありたいからそうしているだけど、私は他者に介入すべきではないし、反対に他者も私のスタイルに介入すべきではないだろう。この辺を間違えると人生は驚くほど有機性を失う。
私はずっと、その時点の私が信じられるほうを選んできた。世界に阿るのではなくて、世界を私に引きつけて生きてきた。「やさしさ」とは、そういうものだろう。『やさしさとは』のサビをみてみると、次のような歌詞がある。まずは1番のサビから。
次に2番。
私も一時期、「やさしさとはなんなんだろう」とずっと考えていた。そのときもこの曲をずっと流してただ歩くしなかった。1年くらい考えただろうか、私はこの問いに答えを出せた気がした。私にとってやさしさとは、「自分の価値観に誠実であること」だった。他者の期待に応えることでも、他者の気持ちも察することでもなかった。私にとってのやさしさとは、そういう類のもではありえなかった。人がなにか落としたら拾うし、困っている人がいたら助ける。そんなのは当たり前のことで、やさしさとはなんなのかを語る以前のことだろう。「正しさ」と「やさしさ」。自分にとって正しいほうとやさしいほうは往々にして相容れないものだ。やさしくあろうとすれば正しくあれないし、正しくあろうとすればやさしくあれない。そう思うのは、他者の存在を前提に考えたらのことで、他者というのはいつだってわからないものだ。どれだけ親しくても一緒にいる人がなにを考えてるのか100%理解するのは不可能だろう。それはただの決めつけだろうし、わかったつもりになるよりも、私は素直にわからないことはわからないといえる人でありたい。だから私にとってのやさしさとは、他者の存在を前提にしない自分ひとりで完結するものなのだと思う。
人と人との関係は難しい。やさしくしようとすればするほど、他者はそうは受け取ってはくれないものだ。私は、いつからかそうするのをやめた。「私の価値観に誠実であることが、誰かのやさしさでありますように」と思うようにした。それが私にとって欺瞞のないやさしさだった。
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