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シモ—ヌ・ヴェイユと社会的抑圧

 生きていくうえではさまざまな社会的抑圧がある。このごろ、抑圧について考える。これまでは抑圧という言葉に注意を払うことはほとんどなかったけれど、状況や環境が変わっていくなかで視座も変わったのだろうと思う。そういえば、シモ—ヌ・ヴェイユの著作に『自由と社会的抑圧』というのがあった。ヴェイユは厳しい時代に行動と思索のひとだったからそういうことに思いを致さずにはいられなかったのだろう。時代は違えど、いつの時代にも社会的抑圧はある。個人と社会は切り離せないものだが、社会の要請と離れて個人的な苦しみや悲しみというものもある。そのような苦しみや悲しみも社会的な抑圧の結果だという側面はあるだろうが、社会を考えるうえではひとりひとりの個人について考えないわけにはいかない。ヴェイユはあらゆる集団を信頼していなかった。冨原眞弓『シモ—ヌ・ヴェイユ』(岩波現代文庫、2024年)には次のような言葉が看取できる。

 人間の尊厳の根拠である非人格的なものをおびやかす最大の敵の正体について、ヴェイユの考えは学生時代からほとんど変わっていない。思考する個人を呑みこむべく口をあけてまつ最大の陥穽、それはあらゆる種類の集団である。

273頁

 また、ヴェイユはメディアも信頼しておらず、「表現の自由とは知性の欲求であり、知性とは個人としての人間のうちにやどる」、「知性の集団的行使なるものは存在しない」との言葉を残している。まずは各人がひとりで熟慮するのが肝要なんだ、と。

 ヴェイユが生きた時代と私たちが生きている時代はさまざまな面において異なるけれども、ヴェイユがいっていたことはまったく色褪せておらず、むしろ今こそ読まれるべきである。SNSはこれまでとは異なるつながり方をもたらしはしたが、新しい種類の社会的抑圧をもたらしもした。あるいは、以前からあったものを顕在化させたといえる。

 社会から距離を取って自分自身でいるということがとてもむずかしい時代だと思う。ひとりでいてもひとりになれない時代なのかもしれない。いつだってそのような側面はあっただろうが、今はそれが顕著にみえる。『フロー体験 喜びの現象学』の著者M.チクセントミハイは「幸福とは、生活の統制である」と書いていたが、みたくないものをみせられ、つながりを強要させる時代だからこそ「生活の統制」はきわめて重要になってきていると考える。



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