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偏愛の美学

 私の偏愛の対象となるのは本と珈琲だ。けれど、そんなことはどうでもいい。私が襲われた問いは、「なにかを偏愛するということはいったいどういうことなのか?」だ。だから、私がなにを偏愛するのかということよりもひとつ上の視座から考える必要がある。

 広辞苑を引くと、偏愛は「かたよって愛すること。ある人だけを特別にかわいがること。」とある。2番目の意味をみると、偏愛という言葉は主に客体が人であることを想定されているようにもみえる。でも、私が「偏愛」という語を使うとき、想定される客体は人間であることは滅多にない。私が人間を愛することが滅多にないからだ。人間は愛するにはエネルギーが多すぎる。私の価値観は河野裕さんの「サクラダリセット」シリーズに出てくる野ノ尾盛夏といちばん近くて、いつでもなんでも気楽な方がいいと思っているし、人間よりも猫を愛でる方に心は向かう。本と珈琲は人間のようにエネルギーが多くないし、私の一方的な愛を向けるのに適している。これこそ「偏愛」であろう。

 人間はあまり愛することはない私だけれど、それでもたまには愛おしく思う人もいる。けれどそれはたいてい近しい人ではなくて、著名人ないし現実で会う機会がない人である。なぜ近しい人を偏愛するのが難しいのか問うてみると、それはやはり「余白」がないからだと思う。著名人ないし現実で会う機会がない人は、私が知らない部分がいっぱい残されている。それを知りたいと思う気持ちや想像力で埋めようとする好奇心がもしかしたら偏愛の条件なのかもしれない。近しい人を愛するにはあまりにも過剰すぎる。なにかを知りたいと思う気持ちは尊いけれど、全てを知ろうとする気持ちは傲慢だろう。それが自由という概念の条件だろうとも思う。強すぎる好奇心は、人を縛ろうとする。それは自由とは対極にあるものだ。

 冒頭の問いに正面から答えるのは難しい。いつだってそうだ。問いに正面から答えることができたためしがない。私にできるのは、問いに沿わないいくつもの卑近な例をみつけて、控除的に私にとっての確信できることを一つひとつ確かめていくことしかできない。だから「偏愛」についても私は、「これが偏愛だ!」だなんて言うことはとてもできそうにない。

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