意味も理由もない幸せ

なぜこうして生きているのか。
この世は生きるに値するのか。
いや、この世が生きるに値する必要などない。
この世は僕のために存在しているわけではない。
僕はこの世界にやってきてこうして生きているだけだ。
僕が勝手に生まれ生きているだけだ。
もちろん自分を産み育ててくれた両親や家族の存在あっての今の自分であり、そこには大きな感謝と愛情がある。それは大切な事であり素晴らしい事である。それをどうでもよいことだと言っているのではない。

様々な偶然や出来事の結果、僕はこの世に生を受けた。
そして今日までこうして生きていて、これからも命が尽きるまで生き続ける。僕の人生というのは、一言で言えばただそれだけのことである。
僕は、頼まれもしないのにこの世にやってきて、この世の不条理に対して憤ったり怒りを感じて吠えたり、生きるということがいかに辛く大変かということをわざわざ必死になって考え、その思いを一生懸命話したりしている。生きている中で音楽や言葉やアートを知り、意味も目的もわからず夢中になって創り続けている。

不思議である。
自分がここにこうして生きていることも不思議であるし、
こうして様々な人々と関わり、一緒に何かを作ったり考えたりして人生を生きているということも不思議である。
全てほんのわずかな偶然の積み重ねである。

人生には意味はない。
人生の意味を問うたりはしない。
自分の人生の意味や価値は問うものではない。問われているのだ。
フランクルの『夜と霧』の中の言葉は僕にとって座右の銘である。
そして僕の強い信念となっている。
「人生とは何なんだ?生きる意味なんてあるのか?」と叫んだところで、
”向こうから”帰ってくる答えはこうだ。
「そんなの知らんよ。それはこっちが君に聞いてることだよ。」
そりゃそうだ、と僕は頷いて今日をまた生きる。

生きている。
音楽を演奏している。
文章を書いている。
絵を描いている。
誰かと話している。
本を読んでいる。映画を見ている。音楽を聴いている。
食べている。寝ている。散歩している。ぼんやりしている。
今自分がやっていることが全てである。

なぜこれをやっているのだ?と理由を考える。
やりたくもないが仕事だから仕方ないから?
やらないと面倒な事が起きそうだから?
理由はよくわからないが、やりたいから?
やりたいからやっていることもあれば、何となくやっていることもある。
やりたくないのにやらされていることもある。

理由や意味はよくわからないけど、とにかくやっている。
そういう状態が一番楽しく幸せである。
今僕らが生きている世の中は、意味や理由があることがどんどん増えてきて、それが僕らをどんどん窒息させている。
気づかぬうちにやらされていたり、騙されて不安を煽られてやらされていることもある。
明確な事がいつも正しいとは限らない。
曖昧でよくわからないのに楽しい事を大切にしなくてはいけない場面がたくさんある。意味や答えや理由ばかりを求めるからおかしなことになる。

僕は、日々押し寄せる「意味と答えと理由」の波を出来るだけ押し戻して、自分の毎日を「本当に意味も理由もわからないこと」で満たそうと全力で努力している。
そうすることが一番幸せで楽しく、「生きている」と実感できるから。
(2022.5.29)


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