ゴッホについて
ゴッホの展覧会にはこれまで何度も行ったことがある。その度に深い感銘を受け、画集も何冊も持っている。たくさんの人々に大きな影響を与えている彼の偉業について今更僕が語る必要はないのだが、ある時ゴッホと後世の僕らとの関係について考えたことがあったので書いておく。
ゴッホという人は生前全く認められず、作品も売れることはなく、やがて心を病んでしまい不遇のうちに生涯を終えた人物である。その死後作品が認められ今ではその素晴らしさを誰もが認めている。「生前恵まれず死後に認められた天才」という芸術家としての典型のように語られている。
長く音楽を続けていて、うまくいかない時は「自分はゴッホのように死んでから認められるんだ!」と嘯いてみたこともあった。酒を飲みながら「自分の才能はゴッホのように死んでから認められるんだ!」と言っている人たちにもたくさん出会ってきた。きっとそんな人は皆さんの周りにもたくさんいるだろう。
認められない芸術家や売れないミュージシャンにとってゴッホという人は最高の慰めになるのだ。認められない、売れないという辛い現実の痛みを和らげてくれる癒しの薬が、ゴッホという存在でありその過酷な生涯のエピソードなのだ。僕が違和感を感じるのは、その「認められない苦しさの癒しの薬として消費されるゴッホ像」に対してだ。死後に認められた天才というのは確かに事実だが、それはゴッホという人の本質ではないのでは?
以前、何度目かとなるゴッホ展に行き、何度も観たであろう多くの絵を見ているうちにあることを思った。耳を切り落とした自画像。収容された精神病院で描いた絵。それらを見て、彼を「悲劇の人」だと思っている自分が間違っていることに気づいた。彼は、耳を切り落とした自分の姿や精神に異常をきたしている自分が見ている世界をも嬉々として描いていたのではないか?精神の苦痛に悶えて苦しんでいる自分であっても、創作意欲を抑えられず夢中で描いていたのではないか?彼は僕らから見れば悲劇的な人生を送り、彼自身も苦しんだのであろうが、そんな時でももしかしたら凄まじい高揚の中で絵を描いていたのではないか?目の前の地獄のような現実にあっても、創作の興奮と高揚が抑えられず目を見開いて描いているゴッホの姿が僕の前に現れた。自死に至るような精神状態でも絵を描く。その凄まじい創作意欲こそがゴッホという人の本質だと思った。「自分は生前は認められなくても死んでから認められるのさ」なんて悠長なことを嘯く暇もなく、狂気の顔をして駆り立てられながら絵を描く男。ゴッホを癒しの薬にするような表現者にはおよそ想像もつかないような狂気と巨大なエネルギーの世界に生きていたのがゴッホなのだと何年も彼の絵を観てきてやっとわかったような気がした。
僕が惹かれ続けるのは、耳を切り落とすほどに表現にのめり込む狂気や悲劇の人生ではなく、どんな状況にあっても境遇に屈することなく絵を描き続けるその恐ろしいほどの創作意欲なのだ。境遇に負けることなく続けられた創作がもたらしたものが、あの素晴らしい傑作の数々だということ。それこそが僕ら後世の表現者たちが彼から得るべきものなのだと思う。
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