カオスとノイズの海
僕は、1人の人間として日常を生きて、社会の中で暮らして生活を営んでいるのだが、どんな時でもカオスというものを感じながら生きている。
いや、それを探しながら生きている。
カオス。混沌。目を凝らせば、それはどんなところでも見つけられる。
満員電車に揺られている時も、その景色の全てが奇妙で破綻しているように見える時がある。電車の中でじっと立っている人々や、駅を行き交う人々を見続けていると、そこにとんでもない混沌を感じる時がある。
都会のような極度なシステムの塊、システムのコントロール化にあるとされている場所にこそ、そこらじゅうにほころびが見える。
そこからカオスが噴き出している。
僕はカオスを感じる時に、とてもホッとする。
あ、ちゃんと生きていた、と感じる。
カオスは救いである。
僕はノイズが大好きだ。それ無しでは生きていられない。
ノイズがあると、あ、ちゃんと生きていた、と感じる。
ノイズもまた、救いである。
全てが整えられて、全てがシステムの上にあり、整然としていて計算と効率の上にある、という状態が正しい状態とされている。
僕らの社会や日常は、カオスやノイズのような予測不可能なものは排除していこうする。巨大になったシステムを維持していこうとする努力は、それがどんどんエスカレートしていくほど、確実に人を蝕む。
蝕まれていることを忘れるために、さらにシステムとの接続を強化する。
秩序というのは、本来は危ういバランスの上で成り立つもの。
常に揺れながら、揺さぶられながら。
それを揺れることなく、いつまでも同じ状態のまま固定しようとすることが異常なことであり、それを無理にやろうとするから壊れてしまう人々が生まれたりする。
凝り固まった考え方、定型化された感覚や感性、行きすぎたシステム。
それを破壊するエネルギーがカオスとノイズだ。
カオスやノイズは社会のほころびから勢いよく噴き出してくる。
抑えようとすればするほど、それは勢いよく噴き出す。
僕らの日常は、広い海の上に浮かんだ船のようなものだ。
広い海はカオスとノイズそのものだ。
僕らは時に船酔いをしながら、カオスとノイズに揺られて海の上を漂っている。
揺れないようにいくら巨大な船を作っても、それは所詮ただの船だ。
自分達がさも固い大地の上にいるように自分達を騙しても無駄だ。
船内の広い船室では、荒れる外海を忘れるほど、派手なパーティーが連日催されている。
僕はそんな時、ふと甲板にあがり身を乗り出して、カオスとノイズの波を浴びる。
わざわざ波を浴びる僕は奇妙なやつに見えるかもしれないが、その波を浴びることで僕は頭がクリアになり目を覚ます。
僕にとっては、船室のパーティーよりも、果てのない外海の風や波を浴びている方が大切なのだ。
僕らの船はどこに向かっているのだろう。
どうやら誰も知らないようだ。
誰が操縦しているのかも誰も知らない。
知らない不安を忘れるために、パーティーは続く。
僕は暗い海を眺めて波を浴びながら、星を探している。
(2022.4.17)
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